【復元模型】萩城天守①概説
関ヶ原の戦いに敗れ、中国地方112万石から防長30万石に減封された毛利輝元は、居城であった広島城を明け渡すと、萩に城地を定めました。萩は日本海に注ぐ阿武川河口の三角州に位置し、海に面した指月山とその山麓に築かれたのが萩城です。慶長9年(1604年)から4年をかけて、指月山頂に本丸・二の丸、山麓に天守曲輪・二の曲輪・三の曲輪を築きました。天守は天守曲輪の南西部に上げられました。
天守の姿
取り壊し前の天守の古写真を見ると、天守は五重のいわゆる望楼型、記録から内部は五階の重階一致の天守でした。二重目に東西棟の大入母屋をかけ、その上に三重の上層が乗ります。最上階には廻縁と高欄を設けます。壁は総塗籠の大壁で、最上階のみ柱と長押を塗り出した真壁となっています。窓は突上げ戸を持った格子窓で、最上階以外には長方形と正方形の狭間を空けています。
特徴的なのは一階部分が天守台石垣より広く、石垣天端から張り出した「張り出し造り」となっていることです。大入母屋を持つ二階より張り出しの一回り分一階が広くなっていて、二階の広さは天守台と同じとなります。また、上層は三階の南北に入母屋をいただく張り出しがありますが、三階と四階の胴回りは同じ大きさで、一〜二階が通し柱でひとまとまり、三〜四階が通し柱でひとまとまり、その上に五階を乗せた三段構造であったことが推定できます。
天守の後ろ(北側)の一段低い石垣に付櫓があり、この付櫓に出入口がありました。
広島城天守との類似点と相違点
萩城天守も広島城天守も毛利輝元により建てられました。この二つの天守を比較してみると何が見えてくるでしょうか。
萩城天守と広島城天守は一見したところでは印象が異なります。それは広島城天守が下見板張りの木部主体の壁面であるのに対し、萩城天守では漆喰の大壁であること、広島城は二つ並んだ比翼千鳥破風や千鳥破風で屋根を飾る一方、萩城は入母屋破風だけで屋根を構成し、広島城天守にはない三重目の張り出しがあること、また大入母屋の棟の向きと最上層の棟の向きが広島城では互い違いに直交させているのに対し、萩城では同じ向きに揃っていることなどがあります。
しかしながら共通点も見出せます。それは、二重目に東西棟の大入母屋を設けていること、最上階に廻縁と高欄を備えることです。また、古写真では確認できませんが、古絵図によると萩城天守の最上階の東西壁面中央には花頭窓が設けられていたようで、広島城天守最上階の花頭窓に通じます。細部ではありますが、垂木の割り付けが広島城天守、萩城天守ともに一間を六枝とすることも共通しています。
興味深いのは、萩城天守を古写真から図面化して広島城天守と並べてみると、萩城天守は広島城天守のちょうど四重の高さにつくられていたと見られることです。
にもかかわらず五重であることに拘ったようで、五重を実現するために、二重目の屋根の傾斜に向かって三階の張り出しを作って入母屋を乗せ、無理やり三重目を入れ込んだようにも見えて、二重目〜四重目が混み合った印象になっています。この三重目を入れ込むために、二重目の大入母屋の勾配を緩く設計せざるを得なかったようです(古写真参照)。112万石の大大名から30万石まで減封された“分を弁えた”天守とすべく、広島城天守の規模を基準に四重高に設計しつつ、しかしあくまで五重を指向したところに輝元の想いを見るような気がします。
また、一階の規模においても、広島城天守の12間×9間に対し萩城天守は天守台石垣から張り出して確保した11間×9間には広島城天守が意識されていたことを感じさせます。
天守は城下からは見えなかった?
萩の城下町は「江戸時代の古地図がそのまま使えるまち」ともいわれ、江戸時代の町割りがよく遺されています。この城下の構えについて、後代の文献ではありますが、次のような記述があります。
つまり、天守を基準に町割をした、というのです。実際に、古萩地区の樽屋町と平安古地区の秀岳院筋(満行寺筋)が天守を起点とした城下の軸線として指摘されています。
一方で建築史家の平井聖氏による次の指摘もあります。
天守を起点に作られた町と、その町からは見ることができない天守。町の基準点を見ることができた人は限られていたのかもしれません。
明治の破却と昭和の再建計画
明治維新の中枢であった防長は版籍奉還、廃藩置県に際し、萩では他藩に率先して城を破却しました。城跡には旧藩士によって毛利輝元を祀る指月神社が建てられ、その後少しずつ公園として整備されていきます。
昭和7年(1932年)に市制が施行されると、初代市長によって「城の再建」計画が表明されます。これを受け、資産家と青年団を中心に天守の再建構想が進められました。構想は鉄筋コンクリート造りで天守の外観を模し、内部は勤王志士たちの遺物を展示する記念館とするというものでした。しかし、地元新聞を中心に反対の意見が出されます。反対意見の骨子は「維新で範を示す必要から全国に率先して城を撤廃したのであって、天守がないことが大きな誇りである」「郷土の歴史を省みた時に、封建時代の築城方式の一部を復活してみたところで萩としての価値は少ない。萩は明治初年に天下に率先して版籍奉還し、城を破壊して封建の思想を一掃したため、城跡に石垣だけが厳然として残っていることこそ史跡的価値がある」というものでした。結局、天守の再建は昭和10年(1935年)の萩史蹟産業大博覧会に合わせて、一時的に博覧会場に史蹟館として仮設の簡易的な天守風建物がつくられれただけで城跡での再建は実現しませんでした。
現在、史跡に指定された城跡における建物の復元では、まず第一に「当該史跡等の本質的価値の理解にとって有意義であること。」が求められます(文化庁「史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」)。本質的価値の理解といったときに、城が失われたそのこと自体に歴史的意義がある場合、安易に復元することはむしろ史跡の理解を損ねる場合があるかもしれません。よくよく考えるべき視点だと思います。
萩城天守復元の現在
明治初期に天守が失われたあと、学術的復元が試みられた最初は、昭和16年(1941年)の藤岡通夫氏による論文上でのことでした(「萩城天守復原考」)。天守各階の平面古図の写しと古写真を資料にした考証でしたが、最上階の大きさの割り出しなどに誤りがあり、古写真の端正な姿とは異なる復元図となっています。平成に入ってからは三浦正幸氏による復元図も発表されています。これらをもとにCG復元等も行われていますが、私には今ひとつ萩天守本来の正確な形を復元できているように感じられませんでした。
今回の復元模型の制作の目標は、古写真に写された天守をもう一度正確に立体化することです。江戸時代の平面古図と遺された天守台石垣から古写真を解析し、萩城天守の姿に迫りたいと思います。
[主要参考文献]
宮本雅明「近世初期城下町のヴィスタに基づく都市設計 その実態と意味」
野中勝利「熊本,萩及び若松における城址での模擬天守閣の建設構想とその背景-戦前の地方都市における模擬天守閣の建設に関する研究 その4-」
山口県萩市『史跡萩城跡、史跡萩城城下町、史跡木戸孝允旧宅 保存管理計画』