どこに向かって背中を押されるか
たとえば応援とか、自分以外のちからが自分に作用することがある。
背中を押されるっていう言い方をするけれど、どこに向かって押されるのか
場所によってはヤられちゃうよってこともあるって話。
わたしも追い詰められたことがある。
公式には仕事を干されたことがある、って曖昧な表現をしたけれど、干された後どうなったか続きがある。
屋上で不要な紙を燃やすことをやらされていた。倉庫の整理で夥しい量の廃棄書類が出て、溶解処理の費用をケチるためにホームセンターで薪ストーブだったか何かを買ってきて、人目につかない屋上に運んで焼却する作業だった。
焼却炉が売ってないってことはやったらダメだからな訳で、やったらダメなことに薪ストーブを代用してやるっていう非公式なことが仕事だった。
やったらダメなことを仕事でやるジレンマとやらなくていいことがわたしの仕事っていうジレンマ
たぶんあの時、これからやろうとしていることや夢がなかったら病んでただろうと思う。屋上で要らない紙を燃やしながら、わたしのこの手はこんなことをするためにあるんじゃない!とぢっと手を見ながら思った。
親にこんなことにからだを使ってごめんなさいと思った。
そう、背中を押す話。
あの頃、屋上からたまに下を見ていた。こんな所で非公式な仕事をしていて、中から鍵を締められたら締め出しになるし、労いの言葉ひとつがあるわけでもないし、今ここから飛んだら…っていうことを何回も考えた。
一緒にそれをやっていた先輩は、わたしのそんな心理状態も理解してくれていたようで、当時はわからなかったけど、数年経った時に当時の想いを話してもらって幾分救われた。
それはそれとして、感謝だ。だけどわたしはまだあの時の上司のことを許せてはいないと思う。
どこに向かって背中を押すかというのは、夢に向かってとかではなく、屋上から下を見ている時の氣持ちに対してだとしたら、わたしは今ここにいない。
本当にギリギリだった。
どんな人にも悩みがあって、成功しているように見える人にだって抱えてるものがあって、それはそうなのだろうし、ひとりで思い詰めることは誰でもいくらでもある。
だけど、そっちじゃないほうに背中を押されて生きていて欲しかった。って思うニュースに触れて、命について考えたら涙が出た。
一瞬の選択。自分が自分の背中をどっちに向かって押すのか。