学生服と、型紙に映る性差
ふざけて友人の学ランへ袖を通したときに味わった驚愕と戦慄と羞恥は、いつまでも褪せることなく蘇る。
昨今見かけた、選択制制服やジェンダーレス制服からの思考をつらつら。
全然詳しく追っていないので的外れかも。
型紙は残酷なまでに性差を映す。
「この身体は、自分が求めるそれとはかけ離れた形状を有している」
という、当事者へ現実を突きつける行為にしかならない可能性はないか。
私は今から2年前、20歳のときに、性同一性障害の身体的治療であるホルモン療法を開始した。作用によって体型は日毎に変わっていき、脂肪が失せたり筋肉が締まったり膨れたり。すると布が足りなくなる、逆にだぶつく、合わせが割れる、おかしな皺が入る、型が崩れる。
型紙はホルモン・二次性徴・体格の性差を映す。
身体が服から、仕立てから、型紙からずれていくことが、自分の身体の変容を示し、ずれて着られなくなった服の数々が、移行の客観的記録となる。
先月も大臀筋を鍛えてみようと思って数日やったら形が豹変し、尻ポケットに財布とスマホを入れたまま座れるようになった。このスキニー、腰から尻の曲線が気に入って買ったやつだったんだが。あとライン綺麗なだけあって割といい値段したんだが……。
そして、発達障害としては非常に困る日々だ。服の着心地とラインがどんどん変わっていくから。数多の固執やら感覚過敏やらを掻い潜り、自分に合うものをどうにか見つけて買ってきているというのに。
結果、脱皮かとツッコみたくなる勢いで衣替えを繰り返す羽目になる。しかし懐はそれを許さないので、もう諦めてワークアウトに本腰入れてその間をオーバーサイズで凌いだ方が賢いとは思う。
話を戻そう。
私の場合、校則と制服の近辺には、「決まりを守る」= 校則の遵守・定められた形を崩さない、といった強いこだわりが存在した。ついでに、当時はGIDである確固たる自覚がなかったため無意識下だが、性自認を基準とした異性装への傾向も。
よって、女子用制服を着ること自体は、そう苦痛ではなかった。自分が校則を忠実になぞれていること、デザイン通りの着用ができていることに満足を覚えた。クラスメイトたちの着崩しは、制服に定められた美しさを損ねていると思った。
故に、「女子用制服を着(させられ)るのは、この身体の性別が女性だから」という事実が私を苦しめたのだ。
「身体的性別が女性である」という事実こそが。
そこへ、「あなたの身体の性別は女性だが、あなたは制服を自由に選べる」と言われたら。
それは、解決になっただろうか?
私の場合は、ならなかっただろう。
私は私を客観視しないからだ。私は社会性の欠陥を持つ。私の関心は「私が観測する私の性別(性自認)」であり、「私が所有する身体(身体的性別)」であり、「私が着る服」である。
私が望むのは、「身体的性別を性自認へ一致させること」である。
身体的性別をすっ飛ばし、出し抜けに制服だけ持ってこられても、まるで意味を成さない。
ひたすらに、私のGIDは性自認と身体的性別が主で、制服が示す社会的性別、ひいては社会は眼中になかった。少なくとも、身体的性別の問題がある程度解決されるまでは。
話を戻そう。
まあ、私には解決足り得なかっただろうが、思春期早期から身体的治療を開始、もしくは明確な自己認識を持てている人には、とても有用な制度だろう。大概の社会的性別の意味合いは、私のそれとは大いに異なるのだろうし。
それに、学生服なんてもともと二次性徴期に着るものだから、そう合っていなくてもいいのかもしれない。
でも、どうせやるなら、セミオーダー程度で、性徴や性別移行の体格バリエーションほぼ全てに対応でき、かつ所属を示す被服の社会的役割も全うでき、学生服に相応しい価格で誂えられる、男女別またはユニセックスの制服デザイン、ってのを作って欲しいよね。
青春を委ねるに足る制服を。
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