○○○のトリアージ
「店長、LINE来てますよ」
僕はスマートフォンに目を落とした。メッセージに続いて、たくさんのハートマークが画面に表示される。天真爛漫な沙紀らしい、連日の「構ってアピール」だ。
「返信していいですよ。彼女さん、最近会えてないんでしょ?」
「いいよ、大したことじゃないから」
実際気になることがありすぎて、連絡するどころではなかった。スマートフォンを裏返し、部下の左胸に再度目をやる。
「やっぱり見えてます?」
「はっきり見えるなあ」
数日前から、奇妙なものがそこにある。色のついた長方形のタグだ。リボンのようにも名札のようにも見えるものの、模様や文字は書かれていない。服の上にぺたりとくっついているのだが、僕以外の人間には見えていないらしい。
「どこかのショップで、声かけないでほしい人はピンク、接客OKの人は黄緑とかってリストバンドをはめるとこがありましたけど。どうせ見えるんだったらそういうのにしてくださいよ」
能天気に言う子のタグはグリーン。隣に座るもうひとりの子はレッドだ。スタッフは僕以外女の子だし、凝視するのは憚られるのだが、どうしても気になって目をやってしまう。思い切って事情を打ち明けた今は、怪訝そうにしながらも受け入れてくれているけれど。
「それなら苦労しないよな」
「働きすぎじゃないですかねぇ」
「すみません、私、ちょっと体調が悪いので、今日は上がらせてもらっていいですか?」
レッドのタグをつけたスタッフが立ち上がる。最近表情が堅かったから、今日も無理をしていたのかもしれない。話は進まなかったが、今日の打ち合わせはお開きにした。
僕は百貨店にあるサプリメントの専門店で勤務している。試飲用のタブレットや栄養ドリンクを店頭で配り、客の悩みやライフスタイルに応じてビタミンやエンザイムなんかのサプリメントを紹介するのが仕事だ。このところ予算を達成できない月が続いており、終業後もスタッフと膝を突き合わせて打ち合わせや分析を重ねている。
そうして仕事に取り組むうち、客やスタッフの左胸――ちょうど心臓のあたり――に、タグをみとめるようになったのだ。色はレッド、イエロー、グリーンの三種類に限られている。比率としてはイエローが最も多く、次いでグリーン、レッドの順だった。
「必ず赤、黄、緑なんだよな。信号みたいに」
「ていうか、トリアージみたいですね」
翌日。店頭でぼやいている僕に、イエローのタグをつけたスタッフが言う。聞き返そうとしたところで、彼女は接客に入ってしまった。社内用のタブレット端末で調べてみる。トリアージ。多数の傷病者が発生した救急現場において、治療の優先度を判別するために用いるものらしい。荷札のような形状で、下からグリーン、イエロー、レッド、ブラックの順に色分けされており、容態の段階によって該当の色が一番下に来るように切り取る仕組みだ。グリーンはひとまず急を要さない状態、イエローはレッドほどではないが早期治療が望ましい状態、レッドは一刻も早く治療を要する重篤な状態、という具合に。ブラックは死亡、もしくはいかなる処置をしても救命が不可能であることを示しているそうだ。
僕はタブレットを抱えたまま唸った。
本物のトリアージほど厳密ではないにしても、僕に見えているタグの色と当人の健康状態とは連動しているように思える。昨日体調が悪いと言っていた女の子のタグはレッドだったし、売り場を駆け回る子どものタグはだいたいグリーンだ。全体的にイエローが多いのも頷ける。健康そうに見えても、誰にだって調子の悪い部分がひとつやふたつあるだろう。それにまだブラックのタグを見かけたことがない。これにも合点がいった。該当するのは表を出歩ける状態ではない入院患者や、寝たきりの病人だろうからだ。
「店長、私考えたんですけど、昨日取れた新規のお客様にお手紙書いてみましょうよ」
さきほどのスタッフがクリップボードを差し出してきた。百貨店のロゴが印刷されたポストカードが挟み込んである。
「君、体調は大丈夫?」
「え? まあ、疲れは溜まってますね」
それよりレターを、と言われて僕はクリップボードを受け取った。目の前の接客に必死で、ここしばらく手紙など書いていない。
カルテと照らし合わせて文言を考える。体調改善のための簡単なアドバイスのほか、うちのサプリがいかに今の悩みに効果的かを織りこみながら手紙を書いていった。
僕だけに見える左胸のタグが、本当にトリアージの役目を果たすのだとしたら。ペンを走らせながら考える。尋ねずして相手の健康状態がわかるのなら、大いに新規客の獲得に使えるではないか。
その日から僕はトリアージを頼りに接客していくことにした。そもそも人というものは、健康なうちはサプリになど目もくれない。健康診断で数値を指摘され、あるいは痛みや怠さを感じてはじめて己の生活習慣を省みる。グリーンの客は避け、イエローやレッドの客に優先的に声をかけていけばいい。強気に商品を提案していき、十日ほどで結果は出た。僕の新規客数が倍ほどに増えたのだ。別店舗の店長に報告するとアプローチの仕方を尋ねられたが、こればかりは教えられなかった。
ただ不可解なことがある。イエローが狙い目というのは予想通りだが、最も不調を抱えているはずのレッドがなぜか取りにくいのだ。懐事情のせいなのかと、一か月分のサプリが無料になるセットをすすめたりもするのだが、どうも反応がよくない。あまりにも体調が悪いと、ケアをする気も失せるのだろうか。
「高塚さん、こんにちは」
「あっ、お久しぶりです。ご体調いかがですか?」
一日の客数や売上を書きこむ営業日報とにらめっこしていると、上顧客が立ち寄ってくれた。頭痛やめまいなどの不定愁訴を抱えており、サプリとの付き合いも長い女性だ。スタッフの顔と名前を憶え、時折地下階で買ったパンや菓子を差し入れてくれる。百貨店自体の常連でもあり、他の売り場のスタッフからも好かれていた。彼女のトリアージはグリーン。ようやく快方に向かっているのかと思いきや、風邪が長引いて状態が悪化しているという相談を受けた。
「免疫力が落ちてますね。お疲れなんじゃないですか?」
「そうね、仕事が忙しくて。でもこちらのサプリメントをいただくようになってから、調子はだいぶいいのよ」
体調面で言うなら彼女こそイエローやレッドのはずなのに、いったいどういうことだろう。新たにアミノ酸のサプリを売り、僕はスタッフとともに彼女を見送る。
「素敵ですよねぇ。ご体調がよくなくてもいつも明るくて、穏やかで」
確かに彼女は情緒が上向きに安定している。毎日悩まされているはずの不調をものともしない明るさに、僕らが元気づけられることも多いのだ。振り向いて会釈する彼女にもう一度頭を下げたとき、あることに思い至った。
このトリアージは体調ではなく、精神状態を示しているのではないだろうか。レッドの客は声をかけても及び腰だったり冷淡だったりで、すぐに売り場を離れてしまう。対照的に、グリーンの客は楽しそうに僕のセールストークを聞いてくれる。体調のせいだとばかり思っていたが、トリアージが示しているのは精神状態が健康かどうか――落ち込んだり、苛立ったり、無気力になったりしていないか――なのかもしれない。
そうなると、あまり仕事には活かせないことになる。ストレスに対応したサプリもあるにはあるが、僕らが補えるのはあくまでも栄養素だ。体の状態が直接見えるのでなければ、指標としては心許ない。
僕は再び顧客作りに悩むことになった。見えてしまっているだけにトリアージに気を取られ、思う通りの接客ができない。業績も低迷し、上司に発破をかけられる日々が続いた。
伸び悩む数字に四苦八苦していたある日、レッドの客が珍しくショップの前で足を止めた。不機嫌そうな老婦だ。
「ご体調で、何か気になるところがおありなんですか?」
「この年になるとどこも悪いわ。去年まで両親の介護もしていたから、もうボロボロ。夫も娘も協力してくれなくて」
積極的に売る気になれず、僕はただ彼女の愚痴に耳を傾けた。接客業をしていると、時にはこうして行きずりの人間の身の上話に付き合うこともある。
「そうなんですか。お辛かったですね」
女性が僕の顔をはじめてまともに見つめる。と同時に、トリアージの色がレッドからグリーンに変わっていった。表情も見違えるように明るくなる。初めて見る光景だった。
「そうなの、本当に大変だったのよ。わかってくれて嬉しいわ」
小一時間の接客で、彼女は半年分のセットを買い求めていった。新規客の単価としてはかなり高い。久しぶりの快挙だ。
嬉しいことに、その日は新規客のリピートもあった。スタッフに言われて手紙を出した男性だ。
「丁寧に手紙をありがとう。このあいだすすめてくれたサプリをもらおうかと思って」
初対面ではイエローだったトリアージがグリーンになっている。会話も弾み、しっかりとカウンセリングができた上でのプラスワン販売となった。
「店長、すごいじゃないですか」
手紙を書いた時点ではイエローだったスタッフのトリアージが、これもグリーンに変わっている。グリーンのトリアージに囲まれ、僕は高揚感とともに確信した。これは相手が心を開いてくれているか、僕を信頼してくれているかの指標なのだ。
最初に見えている色は、基本的な性格によるものだろう。人懐こい人間はグリーン、警戒心の強い人間はレッド。そこから僕の対応によって色が変化していくのだ。
途端にまわりの人間のトリアージが気になり始め、店内を見渡す。厳しい指導を入れてくるフロアマネージャーのトリアージがグリーンなのに安心した反面、隣のショップの店長のトリアージがレッドだったことにショックを受けた。何度か飲みに行ったこともあったし、それなりにうまくやっていたつもりだったのに、上っ面だけの付き合いだったということか。
しかし、前向きに捉えよう。僕はこれから相手の本心を見抜くことができるのだ。体調がわかるよりずっと便利ではないか。クレーム処理にだって応用できる。間違いがあっても、まだ関係修復の余地がある客はレッド。逆に対応に失敗し、僕に対して完全に心を閉ざした客は「処置不能」のブラックのトリアージになるはずだ。クレーム自体はうまく収める必要があるが、その客は思い切って手放してしまえば、以降は無駄なアプローチに時間を割かずに済む。
なんだか面白くなってきた。これは沙紀にも話したい。都市伝説やスピリチュアルといった変な話題が大好きな奴だから、すぐに乗ってくるだろう。ルール違反だが、売り場で思わずスマートフォンを取り出していた。短くメッセージを送る。
「仕事落ち着いたよ。今日は早番だから、夕方には上がれる。いつものカフェで会おう」
普段はすぐに返事をよこす沙紀が、今日に限ってなかなか反応しない。じりじりしていると、背後に気配を感じた。打ち合わせの時にトリアージがレッドだったスタッフが、僕を見上げている。今も左胸に赤いタグをつけていた。つまりこの子は僕を信頼していないということになる。あの時帰りたいと言ったのも、体調ではなく僕が原因だったのかもしれない。営業時間が終わってからも付き合わせていたのが悪かったのだろうか。それとも、胸にトリアージが見えるなんて話をする僕を、気味悪く思っているのだろうか。
「あのさ、君、何か僕のやり方に不満があるの?」
「…仕事熱心だとは思ってます」
スタッフは低い声を出す。
「でも正直、彼氏としてはどうかなって。自分の都合だけで連絡したり、しなかったりして、振り回される彼女がかわいそう」
スマートフォンが振動する。画面に目を落とした隙に、スタッフは背を向けて業務に戻ってしまった。
「わかった。待ってるね」
メッセージの語尾にいつもの絵文字はない。最後に僕から連絡したのはいつだっただろう。休日も仕事のことで頭がいっぱいで、沙紀の激励や心配のメッセージに二言三言返信すればいい方だったように思う。少し待ったが、それきり追伸はなかった。タイムカードを切り、職場を後にする。
僕に対して完全に心を閉ざした人間。
その胸にはブラックのトリアージがついている。
よく待ち合わせに使うカフェまでの道のりを、ひどく遠く感じた。通りが見渡せる窓際のカウンター席に沙紀が座っている。急に喉が渇きはじめた。僕に気付いて手を振る彼女のトリアージは、コーヒーカップの陰に隠れてまだ、見えない。
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