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うまれる、ということ
私がこれまでどんな景色を見て、そこから何を学んで、私の「今」にどんな風に繋がっているのか。
そんな私の回想録をゆるゆると書いていきます。まずは命の誕生から。
誕生と、保育器の世界
今から26年前、私は母のお腹に10ヶ月いることなく、この世に生まれた。
週数27週、体重960g。
当時流行っていた人形の、めるちゃんより小さかった。もちろん覚えてないけど。
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呼吸を頑張りすぎて100gくらいダイエットしてしまい
体重が850gくらいまで落ちた。
早く小さく生まれた私は、生まれた時には自発呼吸がなく、生死をさまよったそう。
とりあえず早くこの世に登場しすぎてしまったので、生まれて数ヶ月を病院の保育器の中で過ごした。
ミルクも上手に飲めなかったので、鼻から管を通して栄養を得る、経管栄養をしていた(らしい)。
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当たり前だけど、病院の保育器の中にいると常に両親のそばにいられるわけではない。体力がないから、初めのうちは面会でも抱っこができる時間、保育器の外にいられる時間も決まっている。
学生の頃、「乳児期の母子の直接的な触れ合いがその後の発達や人格形成に大きく影響する」という講義を受けて、
「どうしよう、私、ずっと保育器の中にいた。ふれあい不足かも」
と半分本気で焦って不安になったことがあった。
そのことを素直に先生への疑問としてぶつけたら、先生は
大丈夫。保育器の中だったとしても、親御さんと一緒に病院のスタッフさんもたくさんあなたを可愛がってくれていたはずだし、こうして今あなたは立派に生きられているから。大丈夫ですよ。
そう返してくれた。
私を安心させるための回答だったのか、本当に問題ないのか、よく考えるとその根拠は分からなかったけれど、あの時の先生の「大丈夫」に、当時の私は少しほっとしたことを覚えている。
とにかく、私は両親以外にも病院の先生や看護師さんなど、たくさんの大人の手によって育てられていたみたい。ありがたいね。
生まれるという奇跡の中で
私は母や父からこの当時の話を詳しく聞いたことがないけれど、それなりの壮絶な出産だったのではないか、とは思っている。
だって、私早く生まれすぎだし、生まれても呼吸してないし、呼吸したと思ったら今度は身体に障害が残るし、色々想定外すぎたと思う。
それでも母も私も生き延びることができた。
記憶がないから他人事のようになってしまうのだが、すごい。
「母子ともに健康」というのは、全然当たり前なんかじゃなくて、いろんなタイミングや奇跡の積み重ねで起こる現象なのだと思う。
たぶん、人間ってそのくらい儚くて、強い。
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節分の被り物にちょっと時代を感じる
それでも、小さいなりに私は少しずつ大きくなり、生後3,4ヶ月くらいで病院の外の世界に出ることができた。
生まれて初めての外の空気を吸った時のこと、覚えていたらここに書けたのだけど、全然覚えていないのでもったいない。
どうして私は早く産まれたの?
幼稚園や小学生くらいになって、私は自分にどうして障害があるのか、どうして早く生まれたのかが純粋に不思議で、何度か母に質問するようになった。
その度に母は
早く生まれたから、生まれてくる時に焦って頭の中の脳っていう大事なところをけがしちゃったの。脳は身体に命令信号を送るところだから、光来は歩けないし手が上手く使えないのね。
どうして早く生まれたかは、神様にしか分からない。でもね、誰のせいでもないよ。
と、私に説明してくれていたことを今でも覚えている。
私達は特に宗教を信仰しているわけではなかったけれど、「誰のせいでもない」というのは当時の私にもしっくり来る言葉だった。
両親や家族や他の誰かを責めたところで何かが変わるわけでもないし、何より私にとってはこの身体の状態が生まれた時からの「普通」だったから、特に怒りや悲しみも湧いてこなかったのだと思う。
ただ、これが私。
大きくなってくると、自分の言葉で自分の障害を説明する機会が増えてきたのだけど、その度に私は母と同じ説明を繰り返すことになる。
それしか知らなかったからそのまま受け売りした、というのが正直なところだけど、我ながら好きな説明だった。
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障害は誰のせいでもない
そう私は心の底から思っているからこそ、私と同じような障害のある子どもを産んだママ達が自分を責めているのを見るのは、いつも無条件に心がぎゅっとなる。
特に、出産トラブルで子どもに障害が残ったケースは、母親の罪悪感が募りやすいのだと思う。
こんな身体に産んでごめんね
私の母にもそうやって自分を責めていた時期があると聞いているし、私の障害がわかった時には一緒に死ぬことも考えた、とも言っていた。(今は違います)
それはその出産トラブルや障害告知のトラウマと向き合う中での自然な心の「反応」で、悲しみを時間と共に癒すにはむしろ必要なプロセスなのかも、とも思う。
でも、それでも。
やっぱり私は、ママが自分のことを責める必要なんてない、と言いたい。言い続けたい。
だって、どんな状況でも私達を頑張って産んだことに変わりはないし。
いろんな思いをして、それでも「生きる」ことを選択して、すぐに消えてしまいそうな命を守ったんだし。
そこを乗り越えての今があって。
こんなに頑張ってきたのに、自分を責めて傷を増やすようなことして欲しくない。
もっと、その時の自分と子どもを、「よく頑張ってきたね」って、抱きしめてあげてほしい。
だって、ママもパパも子どもも、
みんな頑張ってるんだから。
正直、子どもの立場からすると、自分達が生まれてきたのは自分の意思ではないから「親が勝手に産んだのに」とか、思うこともある。
辛いことがあると、生んでくれてありがとう、と思えない時もあると思う。
普通にしんどいこともたくさんある。
綺麗事だけじゃ生きてはいけない。
(正直すぎてごめんなさい)
でも、どっちにしろ生まれたのなら、どうせ生きるなら、私は心があったかくなる景色の方をたくさん見たい。
自分を産んだ親が悲しい想いをしている景色より、一緒に笑う景色が見たい。
辛い気持ちに蓋をして生きる人を見るより、どんな気持ちにも素直に生きる人に囲まれていたい。
どうせ生きるなら、自分や他人を責めるより、自分や他人を大切にしたい。大切にする努力を重ねたい。
絶望の先にあるもの
ひとがうまれる、ってすごい奇跡。
だからこそ、たとえその赤ちゃんに障害があったとしても、人生の途中で障害や病気と出会うことがあったとしても、
そこから見える景色は絶望だけじゃなくて、あったかいものもたくさんあることを、私は私の世界を通して伝えていきたい。
ひとりきりの絶望も、言葉にすることで仲間や希望が見えたりすることもあることを、ここに残しておきたい。
そんな思いで、この回想録をはじめます。