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こどもに今説明しても分からないと思うときどうするか
「いずれ分かるよ」
先生は確かにそう答えた。
私が小学校1年生のとき、何かの本に「話しをした」という表現があった。
私は「話」という一文字で「はなし」と読むことを知っていたので、これに送り仮名がついていることに疑問を持って先生に質問した。「これは間違いなのではないか」と。
すると先生は、どちらも間違いではない、送り仮名をつけることもあるのだ、と説明した。しかしどう違うのかは「いずれ分かる」として説明を拒んだのである。
当時の私は、辞書を使って調べるという手段を持ち合わせていなかった。
目の前の先生はその答えを知っているらしいのにそれを教えてくれない。
いずれ分かるとい言うけどそれはいつなのか。
もしかしたら理解できないかもしれないけれど、説明を試みてくれても良いではないか。
すごくもやもやしたのを覚えている。
イントロとしての制限
今でもときどきこのことを考える。
もちろん情報は多ければ良いわけではない。初学者には情報を絞ることで、多少嘘なんだけどまずは雰囲気を味わってもらったり興味を持ってもらうことの方が大事ということもある。
たとえば、数学。はじめは自然数しか習わない。10進数しか習わない。四則演算しか習わない。例外は考慮しない。
しかし本来「数」について「正しく」理解しようと思ったら大学レベルの数学が必要になる。
限定することで分かりやすくなる。理解しやすくなる。分かった気になれる。イントロはそれで良い、という考え方もある。
しかしこどもにその先のことを質問されたとき、大人としてどこまで説明すべきなのかは悩ましい。
件の例でいうと、小学1年生に向かって「話すという動詞の場合には送り仮名をつけて、名詞の場合は不要」という説明が果たして通じるのか、大人は逡巡するのである。
しかし通じないから説明しなくて良いのか?
そもそも大人が理解していない
大人が理解していないことを質問され、正しく答えられないという場合もある。
マイナスにマイナスをかけるとどうしてプラスになるのか、学校で説明はない。分数の割り算を先生は理解しているのか?
大人がが分かっていないから、説明できないないから、とりあえず暗記、となる場合もある。
こどもの方も、道理を理解していなくてもテストで満点は取れる。
分かった気になれる。
しかしその分かったつもりの世界の先に、実は広い宇宙が広がっているのだ。
自分が知らない世界があるという想像
1次元(線上)の世界で生きているAさんはその世界しかしらない。1本の線の上を行ったり来たりして満足している。それが世界のすべてなのだ。
そんなAさんのことを2次元(平面)の世界にいるBさんは哀れんでいた。Aさんは平面の世界を知らないのだ。僕がAさんの世界を通り過ぎてもAさんにはただの点の集まりにしか見えないなんてかわいそうだ、と。
しかしそんなBさんは3次元(立体)の世界を知らない。立体の世界があるなんて想像もしていない。
こんな風に、みんな自分の論理で生きている。
その世界しかないと思うのは危険だしつまらないことだと思う。
人は見えないものは見えないし、見たくないものは見えない。
知らない世界を想像することは難しい。
ここで言っているのはすべての世界を知らなければいけないということではない。そんなことは不可能だ。
そうではなくて、自分がいる世界の論理はもしかしたら間違えているかもしれない、実は見えていない部分があるのかもしれないよ、ということだ。
この世には「自分が分かっていないことを分かっていない」人が多い。
自分が分かっていないことを分かっていない人に「いずれ分かる」の「いずれ」は一生訪れない。
私は今まで知らなかった世界が「見えた」瞬間がとても好きだ。
新しい思考や思想の次元軸を手に入れた瞬間。
目の前の景色がパッと変わるときの腑に落ちた感じ。
自分がアップデートされた感覚。
今まで自分が生きていた世界はなんだったのか、今までの常識はなんだったのか、と思う。
だから本を読んだり人に会ったりじっくり考えたりして新しい「次元」を追加する作業が楽しいと感じるし、知らない世界があることを常に心に留めておきたいと思っている。
大人がこどもにできること
高い山の上に人がいる。
その人が「ここからの眺めはとても素晴らしいよ」と言う。
けれどその景色は、自分でそこまで行かないと決して見えない。
自分で見るまでは話を聞いて想像するしかない。
この「人から聞いた話」というのがとっかかりであり、そういう山があるのだ、ということを知るきっかけである。
そこへ興味が向けば、人は自分で山を登り始める。
学校や先生や親ができることにこの「とっかかりを作る」ということがある。これは既に述べた、制限された多少嘘の混ざった情報でも良いと思う。
しかしその山に登りたいと思った時にどうすれば良いのか。
装備品が必要だ。
つまり、大人はこどもに「ツールの使い方を教える」ことも必要なのだ。
それ以上のことを調べたかったらどうしたら良いのか。
図書館、インターネット、本、有識者のツテやスクールなどの選択肢を与えることで、大人が必ずしも付き添わなくても自分で探検することができるようになる。
もちろん、大人が作為的に作った環境である「とっかかり」に触れても興味を持てないこどももいるだろう。一方でもっと知りたいと思うこどももいる。
他人に対して強制的に興味をもたせることはできない。
だけど、知りたいというこどもに対して新たな環境を用意したり、ツールを与えその使い方を教授することも大人の大事な役割なんじゃないかと思っている。
そして将来的には既に登頂者のいる山ではなく、新しい山を見つけて初の登頂者になれる日が来たら凄いよね。
いずれにしても、私はこどもから何かを質問されたときに「そのうち分かるよ」とは言わないようにしたいと思っている。
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