彼女と手作りサラダ
私は2週間前に、5年間付き合っている彼女と同棲を開始した。
家事を分担しながら、楽しく生活している。
私が掃除、洗濯、皿洗い。
彼女が料理と部屋のコーディネイトを担当している。
昨晩出されたサラダを食べながら、彼女と話しをした。そこで気づいたことをシェアする。
■私は「肉料理」が食べたかった。
私は料理が「下手」だ。
いや、たぶん正確には、料理を「知らない」のだ。
私は5人兄弟の末っ子に生まれ、物心ついた頃には、5つ上の姉が料理をいつも作ってくれた。
姉が大学生になって家を出てからは、料理に目覚めた父が土日に作りためたり、母が冷食を買いためるようになり、冷蔵庫にはなんでもあった。
冷蔵庫は宝箱だった。
そんな私が2週間前から実家を出たわけだから、大変だった。
まったく顕在化してないニーズをぶら下げて、先週末、近所のスーパーにいった。
―ああ…肉料理…肉が食いたいな
ー家で食べた、あの料理、なんだったっけ。。
あとで調べてわかったことだけど、私が好きでよく食べていた肉料理は「牛肉のしぐれ煮」というらしかった。
でもそのとき、私はスーパーの精肉コーナーで何もできなかった。
料理は、その名前すらわからないと、買うべき食材や調味料が逆引きできないと私は学んだ。
■彼女のサラダは単なる「サラダ」ではなかった
話は昨日の夕食に戻る。鱈ときのこの煮物の横に、小さいサラダがあった。
そのサラダは、前日私がコンビニで買った、ただのカットサラダだった。
―え、サラダ、めっちゃ美味くない? 何したの??
私は自分が買ったカットサラダの変わり様に驚いた。
彼女は自慢げに言った。
「これはね、マスタードを混ぜた後に、焼いたベーコンとコショウと●■★※を乗せたの」
―?!?
一部聞きとれない何かが含まれていたけれど、なるほどと理解した。
学生時代に読んだレヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」には、人類の面白い能力が紹介されていた。
著者がフィールドワークしていた地域の人々は、「将来きっとなにかに使えそうだ」と思ったモノを保存し、その時が来たときに上手く活用する習性があるというのだ。
料理も、習熟度が高まると、個々の食材を見ただけでゴールをイメージできるようになる。それは職場の仲間がドイツ旅行の土産に買ってきてくれた、名前も分からないマスタードであっても、だ。
■物事の上達と解像度
今回取り上げた料理でも、昔ハマっていた筋トレでも、複業の靴磨きでも、物事の上達に関して共通している一つの学びがある。
それは、「自分が熟せる技はすべて、言語化できる」ということだった。
たとえば、腕の筋肉を十分に鍛えられる人は、腕をぼんやり「腕」とは見ていない。
上腕二頭筋であったり三角筋であったり、身体のパーツの解像度を上げて細分化できる。それに合ったメニューを組むことができるはずだ。
このアナロジーを料理に当てはめるなら、料理を覚えるためには、まず料理名を覚えることであろう。
料理名が分かれば、使われる具材や調味料も目が向き、それぞれ覚えるようになる。そうしていろいろな食品の味を学び、組み合わせ類推し、応用できるようになる。
そうなれば学習サイクルはガンガン回る。自分で作るときだけでなく、出された料理を食べるときにも考えるようになるのではないか。
彼女が「サラダ」を作っているとき、きっと私が見ているサラダではなかったのではないか。おそらくもっとメタな視点だったはずだ。
名前も知らないマスタードやベーコン、その他を私よりはるか高い解像度で見て、バランスを考えて作られた芸術品だったと思う。
・・・
料理やDIYが得意でクリエイティブな彼女に手も足も出ず、ここだけの話、私はちょっと肩身がせまい。
ご飯を作ってもらってばかりで悔しいので、私はハムスターの餌付けの当番を買って出ている。
サポートしてくれた方、いつでも靴を磨かれに来てください。