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紺碧に咲くデルフィニウム 1(先読版)
蒼く広がる海原に、多くの船が行き交っている。
ラルサムニス帝国の都・コルオラの地は、古くから海と陸の要衝であったと伝わる。入り組んだ陸地に挟まれた海は穏やかで、漁をするにも船を停めるにも大変都合がよかった。そこに暮らす人々にとって、船は陸上の馬と同じように、いやそれ以上に人々の足となっていた。漁船に商船、外海へ出る交易船、そして、それらの往来や港を護る艦艇の姿もある。たとえどんなに天候が荒れていても、一隻も船がいない日はないほど、沿岸に住む彼らにとって海は庭のようなものであった。
しかし、彼ら以上に海に生きる者たちがいた。
行き交うたくさんの船の間を、すり抜けるように帆船の一群が疾走する。狭く入り組んだ地形も暗礁もまるで構わずに、大洋を真っ直ぐに突き進むのと変わらぬ速さで、鍛え抜かれた兵士のように一糸乱れぬ隊列で波間を駆ける。魚の群れのように自在に海を泳ぎ、鳥の翼のように風を掴まえる彼らは、《海の民》と呼ばれていた。
船を見るだけでも《海の民》は一目で分かる。鮮やかな蒼色に塗られた帆柱に、真っ白に色を抜いた帆を張り、帆柱の天辺に銀糸のふさを靡かせたその姿が、《海の民》の船である証なのだ。
中でもひときわ大きく、立派な帆を掲げた船の舳先に、その姿はあった。
「おじいさま! 風が変わったわ!」
船から身を乗り出して叫ぶ少女の名はデルフィニア。《海の民》の血を引く娘。
深い海よりも蒼い瞳、空と波との間になびく蒼い髪。まるで水の精霊そのもの、もしくはその化身であるかのような、精霊の愛を一身に受けた姿。
高く晴れた空にかざした細い腕も、日に焼けた幼い面立ちも、齢八つの少女は陸の者から見れば船に乗るにはまだ早いように思われるが、《海の民》にとって年齢は関係ない。《海の民》は、その名の通り海に暮らす人々である。彼らは陸地に家や土地を持たず、船の上で産声を上げ、一生のほとんどを海の上で過ごして、やがて海へと還ってゆく。
コルオラの民にとって海が庭であるのなら、《海の民》にとって海は家そのものだ。
海に生き、水の精霊を大切にする《海の民》にとって、青は精霊の加護を持つ特別な色である。船や服に意匠として付けるのはもちろん、《精霊の色》を人間が生まれ持ったなら、その人は生まれつき精霊の強い加護を受けることを意味する。青い髪は精霊に愛され、海の護りを得るという。青い瞳は精霊の姿を映し、海と心を通わせるという。
精霊に愛され、精霊の力を借りることが出来る力──人々は、それを「魔法」と呼んだ。
《海の民》であっても、陸に住む民たちにも、青い髪もしくは青い瞳を持って生まれる者はそう多くはない。青だけではない、《精霊の色》はどれも稀少なものだ。髪でも目でも、精霊の色がある者は則ち「魔法」を使える者として重宝される。《海の民》であれば船に不可欠な者として大切にされるし、コルオラの民であれば皇宮に仕え、重臣へと出世することだって夢ではない。
蒼い瞳に蒼い髪、両方を持っているデルフィニアは、本当に特別な存在であると言える。
尤も、彼女が《海の民》でも特別なのは、この色の為ばかりではなかった。
《海の民》の船団がコルオラの港へと入るのを待っていたかのように、港に一台の馬車が姿を現した。扉や馬具に刻まれた紋章は、コルオラの民なら皆知っている──都の中心、高台に聳える皇宮で掲げられているものと同じものだ。馬車は港に入ってきた船の正面に停まり、デルフィニアが甲板から大きく手を振る。それに応えるように馬車の扉が開き、一人の女性が姿を現した。
「お母さま!」
「お帰りなさい、デルフィニア」
駆け寄った少女を抱き締めて、母は愛娘と同じ青い瞳を煌めかせた。
デルフィニアの母は「青妃」と呼ばれている。これは名前ではなく、皇帝の子を産んだ妃に与えられる称号の一つである。
青妃は、《海の民》の娘だった。この船の上で生まれ、ほんの数年前まで海風と波に揺られて生きてきた彼女は今、皇宮の荒波と風聞の間をすいすいと泳いでいる。皇帝を支え、皇家の子どもを多く残す使命と、皇家に味方する者との絆を繋ぐ役目とを果たすために生きる、数多の妃たちの一人だ。
陸に土地も家も持たぬ《海の民》は、元々ラルサムニス帝国の臣民ではない。どこの国にも属さずとも、彼らの海と風を読み操るとさえ言われる力と、思いのままに海原を駆け回る航海術は、沿岸諸国の垂涎の的でこそあれ、決して蔑ろにされることはなかった。海洋貿易をするにも海戦を仕掛けるにも、《海の民》を味方につければ心強いことばかり。そう考えた先代のラリクス帝は、彼らを従え押さえつける「支配」ではなく、《海の民》を対等なひとつの国家と見なす「同盟」を望んだ。《海の民》と皇家の縁談を結び、自国が望む交易には力を借りるかわり、《海の民》が他国からの攻撃や天災で被害を被った際には、自国の民と同じように保護する。皇帝が当代のクエルクスへと代替わりした折りにも、彼は《海の民》との同盟を結び直した。《海の民》の長の娘を己の妃としたのも、その絆をより強固なものにするためだ。
皇女デルフィニア。彼女こそ、クエルクス帝と青妃との間に生まれた、帝国と《海の民》とを繋ぐ存在である。
「ふたつを繋ぐ」とはいっても、本来それはあくまでも象徴としてのもの。皇帝の家族は皇宮で暮らすものであり、妃たちもよほど特別な場合を除いて皇宮から出ることはできない。皇帝の血を引く子、しかも幼子を“外”に出すなど、もってのほかである。しかし青妃は諦めず何度も夫へ頼み込み、デルフィニアの安全を何よりも守ることを前提に、彼女を《海の民》の船に乗せることを承諾させた。
青妃が愛娘に海を学ばせようとした、そして皇帝がそれを許した最も大きな理由は、デルフィニアが生まれ持った“力”である。
「お母さま聞いて! 初めて、わたしだけの力で岬の灯台まで行けたのよ。ちゃんと風が言うことを聞いてくれたの!」
「まあ、良かったわねデルフィニア。風とも仲良くなれたのね」
「ええ! 海とも風とも、すっかり仲良しよ」
青い精霊の加護を受け、青色の目と髪を持って生まれたデルフィニアには、赤子のうちから強い魔法の力があった。産湯のしぶきを部屋中に撒き散らしてしまったことに始まり、子守りが少し目を離した隙に水差しの中身だけを取り出して庭まで放り投げてしまったり、皇宮の庭の池で様々な形の波を立てて遊んでいたり、誰に教わらなくとも水を意のままに操ることが出来たのだ。母・青妃の《海の民》の力だけでなく、皇帝であり且つ青い魔法使いでもある父の魔力が、皇女の身に受け継がれている証であった。
しかも、皇女の青い瞳は聡く、水のみならず風の精霊の姿をも映しているようだ。
「おじいさまが褒めて下さってね、約束通り、十歳になったらわたしのための小型船を用意してくださるって。これでわたしも一人前なのでしょう?」
「そうよ、立派な《海の民》だわ。まあまあ、顔も髪もこんなに日に焼けて……お部屋へ帰ったら香油を塗ってあげましょうね」
「ありがとう、お母さま」
青妃は優しく微笑み、娘の豊かな青い髪を撫でる。数日間船上で強い潮風にさらされた髪はすっかり乾いているけれど、きちんと手入れをすれば艶を取り戻すだろう。
海から帰って母と過ごすこの時間が、デルフィニアは好きだった。髪や頬を優しく撫でる母の手も、母と海の話をすることも、母の香油のかおりも。青妃の纏うかおりは皇宮の他の誰の香油とも違って、爽やかで、どこか海の風を思わせる、デルフィニアの一番好きなかおりだった。
馬車はやがて高台へと坂を上がり、城門をくぐり、荘厳な宮殿の前で停まる。召使いが扉を開けるのも待ちきれぬ勢いで、デルフィニアはぱっと馬車から飛び出した。
「お兄さまたちとお父さまに、ただいまのご挨拶をしてくるわ!」
慌ててあとを追う侍女たちにも構わず、デルフィニアは駆け出した。大きく重々しい扉をくぐり、石造りの回廊を進む。船の揺れに馴染んだ足は、どっしりとして揺れぬ大地に一瞬だけ戸惑うけれど、踏みしめ歩くこの感覚も心地よい。柱や壁や、至るところに華麗な細工が刻まれ、秋が近づいてもまだ強い陽射しを浴びて、くっきりと濃い陰が美しく浮かび上がる。吹き抜けるあたたかな風が、皇女の髪を揺らした。
「そんなに急いでどこへ行くんだい、フィニイ」
穏やかな声に呼びかけられて、デルフィニアはぴたりと足を止めた。すぐ分かる、大好きな声。振り向きざまに駆け出して、その声の主に思い切り抱きついた。
「ラウルスお兄さまっ! ただいま戻りました!」
「お帰り、フィニイ」
はしゃいで飛びつく少女を笑いながら抱き止めたラウルスは、デルフィニアの異母兄である。年の離れた異母妹と同じ青い瞳に、さらりと長い髪は銀色──風の精霊の色だ。
ひとつの身にふたつの《精霊の色》を宿す彼は、デルフィニア以上に特別な魔法使いでもあった。
髪と瞳と両方が《精霊の色》であるだけでも特別な存在だが、それぞれに異なる色というのはさらに稀有なものである。この帝国に、しかも皇家の嫡子に生まれたのはいつ以来か──何十年、いや何百年振りの出来事であっただろう。その力ゆえ、生まれたその瞬間から将来を期待され、この国を担う者として育てられてきたラウルスは、父・クエルクス帝の後継者としてその期待に見事に応え、弱冠十八歳ながら政治の場に身を置き、その手腕を振るっている。
そんな立派な皇太子ではあるが、この幼い異母妹の前では、彼女の「兄」としての表情に戻るようであった。
「わたし、海に出ている間も、ずっとお兄さまにお会いしたかったのよ。お兄さまも寂しかった?」
「そうだね、お兄様もフィニイに会いたかったよ。お前がいないと皇宮が静かすぎてしまう」
せがまれるままにデルフィニアを抱き上げ、嬉しそうに笑う異母妹に目を細める。
そんな彼ら兄妹を見ていたもう一人の「兄」は呆れたように肩を竦めた。
「おや、今日の“フィニイ”は甘えん坊さんだな。もう大人なのではなかったのかい?」
「ディアントゥス兄さまは「フィニイ」って呼ばないで! ラウルスお兄さまだけ、特別なんだから!」
むうっと膨れて言い返すデルフィニアを面白がって笑う兄・ディアントゥスは、彼らの長兄である。年はラウルスよりひとつ上の十九歳。皇帝の長男でありながら《精霊の色》を持たない彼は、皇位後継者として認められていない。父と並び立つ異母弟に対して、長兄である自分はその補佐でしかないことに何を思うのか、周りは様々に慮り、時に勘繰りもする。
──が、幼いデルフィニアにとってそんな事は関わりがない。長兄も次兄も同じくデルフィニアとは母が違い、同じく彼女と年の離れた兄、それだけである。尤も、「等しく仲のよい兄」とは言えず、接し方はだいぶ異なっていたけれど。
「ラウルスお兄さまとわたしは特別なのよ。帝国の将来はわたしたちが担うのだと、みんな言っているわ。《色無し》の兄さまは、邪魔をしないで」
誇り高くツンと顔を逸らす。クエルクス帝の皇子皇女のうち、髪と瞳と両方に《精霊の色》を持っているのは、ラウルスとデルフィニアの二人だけ。それを周りの大人たちが特別視しているのも、幼いながらによく分かっていた。
「こら、フィニイ。今の《色無し》はひとを貶める言い方だろう。そんな物言いをしてはいけないよ」
ラウルスが穏やかに幼い妹を窘める。いつも自分に優しい兄に叱られて、デルフィニアはまた膨れっ面をした。
「だってお兄さま、みんな言っているわ」
「みんなが言っているからって、お前が言っても良いということにはならないよ。お前はもう「大人」で「立派な皇女」でありたいのだろう」
「もちろんよ」
「それなら、自分の言葉にも行動にも気を配らなければね。何でも「みんな」と一緒ではいけないよ」
優しく諭すラウルスに、デルフィニアは神妙に頷いた。
当の《色無し》ディアントゥスはさして気にしていない様子で、真剣な顔の異母弟の肩をぽんぽんと叩く。
「ラウルス、私は構わないから、そんなに厳しくしないでおやりよ。デルフィニアにも悪気はないのだし、まだ小さいのだから」
「子どもあつかい、しないで! わたし、ちゃんとわかるわ!」
実のところ、年の離れた兄の話はいつも難しく、まだ八つのデルフィニアには分からないことの方が多い。けれど、分からないなりに、分かるようになるまで覚えておかなければならないということだけは分かった。
「むずかしいけれど、気をつけるわ」
「うん。フィニイは聡い子だ、きっと出来るよ」
ラウルスは微笑んで、異母妹の頭をくしゃりと撫でた。
「さて、これから父上のところにもご挨拶に伺うんだろう? 一緒に行こう」
「お兄さまも、お父さまにご用事?」
「うん、呼ばれていてね。たぶん妃のことだろう」
皇太子ラウルスは十八歳、立派な大人である。他の皇子や貴族の子息であれば、縁談もとうにまとまっていてもよい頃だが、皇太子妃は未来の皇妃、ひいては未来の皇帝の母になるかも知れぬ者であり、選定も慎重にならざるを得ない。十九歳の兄ディアントゥスの妃とあわせて、彼らの父の悩みの種になっているところだ。その辺りの事情は、ラウルスやディアントゥス本人にも伝えられ、二人ともよく分かっている。
が、デルフィニアはそんな大人の事情など知る由もない。きょとんとして兄を見上げ、言った。
「お兄さまのお妃さまは、フィニイでしょう? わたしがお兄さまとケッコンして、この国を治めるのよ」
異母妹の言葉に、ラウルスは一瞬だけ何と返すべきか迷った。もちろんデルフィニアは本気である。「お妃さま」や「結婚」といった言葉を正確に理解していない子供だとしても、本気であることには変わりない。
「……フィニイはまだ八つだからね、結婚は出来ないよ」
「大人になったら、よ! 大人になるなんてすぐだわ。お兄さま、待っててくださるでしょう?」
「待っていてあげたいけど、臣たちや国民が待っていてくれないんだよ。皇太子妃がいないのは良くないって。フィニイも分かってくれるだろう?」
ラウルスは優しい微笑みを浮かべて、不満げに押し黙るデルフィニアの表情を伺う。この幼くも気高い皇女の機嫌を取ることに関して、彼の右に出るものはいなかった。
「……フィニイがお妃さまになったら、一番さいしょじゃなくても、お兄様の“一番”にしてくれる?」
「うん。お兄様には、フィニイが一番大事だよ」
「ほんと?」
デルフィニアは途端にぱあっと表情を明るくする。兄の腕からひょいと飛び降り、待ちきれぬようにぐいぐいと手を引いて駆け出した。
「お父さまのところ、早く行きましょ!」
「はいはい」
駆けていく異母妹の背中を見送りながら、ディアントゥスは異母弟の脇を小突いた。
「ラウルス、まだ言えていないのかい? 異母妹とは結婚できないよ」
「分かっているよ。けど、可愛い異母妹だからね、夢くらい自由に楽しませてあげたいじゃないか。……デルフィニアは賢い子だ。皇族の結婚は自分の自由にはならないって、もう分かってしまっていると思うよ」
「そうかなぁ……」
ディアントゥスは肩をすくめる。
「もう、ラウルスお兄さま、早く! ディアントゥス兄さまも! わたし、先に行っちゃうわよ!」
「こらフィニイ。「立派な皇女」がそんなふうに走るものではないよ」
すばしっこく駆けるデルフィニアを追って、ラウルスも駆け出した。楽しそうにきゃははと声を上げる皇女の笑い顔は、他のどこにでもいる八歳の少女と何も変わらない、無邪気な笑顔だった。
幼いながら既に自分が「皇女」であると知っている彼女はしかし、自分が何者になるかはまだ知らないのだった。
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