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断食道場~第2章~「ちょうどいい加減を求めて」2日目

カッコつけても仕方ないから・・・

本当のところを言うと、連続的に断食道場に来てみたりするのも、それほど強い意志や思い・目的があるというわけではありません。
何となく、今の自分や将来に不安を覚えたりするから、心や身体を調えることでちゃんと立っていられるようにしようと思っているだけなのです。漠然とした不安感や焦燥感みたいなものをそれほど覚える方ではないのですが、この1年くらいは少し自分の内面が変わった気もします。

そんな自分の変化に自分で驚いたり、戸惑ったりすることって皆さんもご経験あるのではないでしょうか?

ちょうど1年前くらいに極度のストレスに襲われたことがありました。眠れなくなって、食事ができなくなって、体重が30代初めの時以来の70キロ切りになりました。日頃はダイエットしなければいけないと思っていたのが、さすがに自分の意思と無関係かつ極端に体重が減ると、今度は何とかして増やさねばと思ってしまうから不思議なものです。

その時に、心と身体を調える(この場合は、「あるべき姿にする」という意味で「整える」の方がいいかもしれませんね)ことの重要性を痛切に感じました。10年以上前に読んでいた稲盛さんの本や、致知出版系の書籍を引っ張り出してきてなんとか平静を取り戻しました。40代の頃に読んだ本を今読み返して、本当にためになると気づきました。これらの本があったからこそ、今の自分があるのだと実感できましたし、年・経験を重ねて感じ方に変化が出てきたことも分かったからです。

しかしながら、仕事もいわゆる「第一線」から少し引いて、ある意味で「超重たい責任」を持たない領域でやるようになると、どことなく物足りなさや、孤立感、あるいは社会との距離感みたいなものを感じるようになったのも事実です。
だからと言って、今までと同じように「バリバリにエネルギー全開」という気持ちにならないというのも正直なところです。こんな感覚、あまり人前でいうことではないかもしれませんが、カッコつけても仕方ないのであえて記してみました。

「ちょうどいい加減」がよくわからないと、不安になる

要するに、「ちょうどいい加減」がよくわからない、上手くつかめていないからそれを探しているような気がします。
マラソンに喩えてみると分かりやすいかもしれません。
「ペース変化」を自分でいかにコントロールするかということです。
集団の中で走っていると、そのペースに引っ張られたり、それをうまく利用して自分のペースを作ったりすることができますが、いったん集団から離れたりすると、今度は「自分のペースを自分で作らないと」いけません。この時にみんな不安を覚えるのだと思います。このペースでいいのか?どんどん抜かれてしまうのではないか?かといってこれ以上ペース上げたら、最後までもたないんじゃないか?
自分の中の「ちょうどいい加減」に自信がないと、どんどん不安が募るのだと思うのです。
おそらく今の自分はそんな状態なんじゃないかなと坐禅しながら自己分析したりしています。(これはこれですごく意味のある内省だと思っています。)

今朝のウォーキング・佐鳴湖畔~~前回とは少し花の色が違う気がしました~~
2日目の精進料理も、とても美味しくいただきました

家にいたらこんな時間は酒を飲みながら、ボーッとテレビを見ていることでしょう。
坐禅をすれば「ちょうどいい加減」が見つかるなんて思っているわけではないけれど、見つけるためのちょっとした工夫としてここにきているのだろうと思っています。

「何で毎月断食道場に?」って聞かれて、カッコつけても仕方ないから記してみました。60歳になっての自分探しかもしれません。

「ちょうどいい加減」を探すのは結構大変だな・・・・・


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