言葉の移動力学風散文

ものがころころ転がるさまをただ漫然と見る間に、光は大体秒速30万kmの速度で移動するさまを見る間に、あの世では仏の隣で蓮が花開く、天上人はそれを見て、少しばかり涅槃に思いをはせてみる。まあ、実際キリストにアッラーに日本だけで八百万。誰が神様だかは知ったことでもないけれど。

まあそんな中を私たちというのは随分悠長に生きていて、こうやってレトリックの一つや二つをこさえては、時針秒針あそび、果てにこんなnoteという書きものの掃き溜めに才なきもの書きのものをやつしては適当に時を過ごす。そう思うと人の死というのは案外と長い時間を経ることとなる。人間は分解すると炭素になるが、それを構成する粒子や量子は常々自身を更新し続けている。気泡のような宇宙を見るたびに恐れおののく。満天の星空は死の象徴に思える。何故か。当然のことながら星の光はどうたらこうたら以前の過去から発信された光であって、それが此方に届こうころには星は寿命を遂げていることも多かろうことと思う。つまるところ、空にある光は全て死そのものであって、空から毎夜死が降り注いでくるようで恐ろしくてたまらぬ感に襲われる。しかし、死というのは魅力的なもので、たかが30年だかの短時間の人生の中でも臨死寸前の自死まがいを繰り返した躁鬱の時期を経てもきた。いつか死と同じ波長を見つければそこに同調することで、まるで音波の位相がかちりと合うように綺麗なまでに蓮の花咲く仏の膝元を観れるのではないかとも思ったが、そういえば自死をすれば我々は地獄の方からお迎えが来ることを失念していた。

意識というのはそういった適当な野放図の散文のようなものでできていて、書物『トリストラム・シャンディ』のような突拍子のなさを感じる。今上で書いたようなことが意識の流れの中で連続的に、頭を休息させる睡眠に至るまで延々と繰り返すに至る。ゆえ疲れるのだから長時間の睡眠をとるわけだが、夢のなかはタチが悪く、勝手に家族を殺しては、おのずと防腐処理を行い血を抜いた体に水を注入し、水人形となった父母とついでに飼い猫を食卓に座らせ、3人と1匹の暖かな飯を作っては、一人笑顔でその美味しさと温かさに心を落とすという珍奇というか悪趣味極まりない夢に落とされることが多い。おおむねこの3次元構造の現実を地獄とするなら、夢の浮遊感と操作性の悪さは煉獄である。六道では餓鬼道がいいところだろう。さて、石を積もうか。

大学時代は言語学を専攻した。20代前半期というのは鬱の撃退と論文の読み漁り、1か月にわたる核実験映像だけを見続ける人生の切り取りを行っていた。かつてかの湯川教授の関わったF研究と呼ばれた原子爆弾計画や、オッペンハイマーに代表されるマンハッタン計画。V2ロケットやサターンVに応用されたフォン・ブラウン。いずれにせよ純粋な学問は軍産に利用される。若い時こそ良く悩み、良く咀嚼し、迷い、ともかく諦観するべきだ。ただ、歩を止めてはならない。言語学の中では人の五感や脳機能へ如何なる意味を成すかを追求する認知言語学である。だが、もとをただせば天文物理学や粒子の波を好んでいたため、学際的に片手間で物理学を独学し続けた。そこに用いる定理や定義に正直興味はなく、数学というのは私には道具であって、フェルマーだとか解法に命を懸ける人々を見ても特によくはわからない。それは今のところ解無き『可能性』を計算化した量子力学を解明したがる自分をみて、意味もないことを、とせせら笑う哲学の教授や物理学の教授の指さしもまあまあ無視して、黙って自己相似性の幾何学に頭の注意をそらされる。いつか1つ1つのガラス球がスーパーカミヲカンデになり、素粒子にとってのオールトの雲足らしめることを祈り。

純文学は極めて読んだ。理学に比べると人文の学科に将来は大体約束されないが、とかく本を読まされたのもある。特に鴎外の『舞姫』におけるエリスは私の憧れの女性像ともいえる。というよりか、太田のどうしようもない優柔不断に左右された挙句、その子を孕みパラノイアになり破滅を迎えるさまを見るのが好きなのは、私が元々演者たちの壇上での悲鳴や悲痛の演技に性癖を刺激されるからだろうか。これを当初教授には『深いうねりのたとえ』と提示すると、教授は少し困った顔をした。申し訳なかった。とはいえ三島が提示した金閣寺の燃えるさまへの観念的な美意識は、吃音を幼少期患った自分にはどこか親和性を感じることもある。

現代文学は非常に狭い範囲で読む。天文や機械工学の興味からか早川や新潮が出すサイエンスフィクションにしばしば魅了されてきた。スタニスワフ・レムだとか、私が敬愛する円城塔であったりと本は脳に刷り込みやすい栄養であるので、一般的な漫画とライトノベルが体に拒否反応の出る自分には、ちょうどが良いという感じがする。

最近、革命とはなんぞやと考える。かつてはフランスに代表されるような政権や王政転覆であると考えたがもっとシンプルであるようだ。それはつまり、ある記号をある記号が書きかえるという作業、プログラムが次のプログラムへとバージョンを変えていくだけのことだと思う。同じ淡水魚でも、ニシキュウリウオとするか、ムクスンとするかといえば、結果は観測次第であって取った魚拓からしか判別はつかないが、記号の集合的に、それがムクスンならムクスンでいいのだろう。

音楽は声と音素の集合であって、一般的には和声と対位で成り立つ。つまるところそこにあるものに対して、どう寄り添うかを決めるのが音楽の在り方である。それをモデル化するとディグリーという考え方になり、音楽構築とその進行の意味というのを思いつくに至る。ほとんどの場合、マンネリズムを嫌って転調を挟んでごまかしてみせるけれど、循環コードから逃げられないのがポピュラーな音楽の欠点か、利点か。クラシック至上主義でもない私にとっては敬愛するラフマニノフのチェロやピアノプレリュードの美麗さも、現代音楽の妙も同等に見えるが、ただ私にとっては物事はよりシンプルであって神楽の旋律でワルツを踊り、琴の音色に合わせてフィドルが重なってもよいのだが、それをよしとしない価値観というのは狭苦しそうに見える。もっともそれでいいならいいのだろう。

日々を歩く中で日よけの番傘に桔梗模様の着物姿の金髪異邦人なんかと出会えればいいのだが、結局顔を見ると洋装の宇宙人ばかりで憂き目を見る今日この頃。皆様いかがお過ごしか。

何を思ったか、衝動でものをかくというのはこういうこと。

言いたいことは集約される。

『皆様五月ですね、元気ですか、私はまあまあ元気ですよ。』

そんなことはオセアニアじゃあ常識なんだよ!

ああ、散文は性的快楽のような倒錯的な味わいがありますね。

では。


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