5-4. 面前DV被害者は沢山いる 前編

 夫は朝早くに家を出るのに、帰りが遅いことが多い人だ。
 最初は夕食を一緒に食べるべく、どんなに遅くなっても待っていたが、それが結構つらかった。夫も、私が待っていると残業中に気になるから、気にせず食べてくれと言ってくれたので、夕食の時間は別にした。私は作った後にすぐ食べて、夫が帰ってきたら、残りを温め直して出すという生活に切り替えた。
 夫は毎朝五時に起きて、六時半には家を出てしまうため、朝ご飯も前の晩に作って、自分で盛り付けて一人で食べてもらっていた。弁当も前日の夜に私が作ったものを冷蔵庫に入れておき、朝夫が自分でご飯を詰めて持って行っていくスタイルにした。そのため傷みやすいものは入れられないし、手のばい菌が付かないように、お弁当作りの時だけは使い捨ての手袋を着用している。
 元々寂しがり屋で、機能不全家族だとしても親から離れられなかった私は、この生活が寂しかった。朝七時に起きてきても夫はもういない。三食別に食べて、深夜の夫の晩ご飯の時間にソファで並んでテレビを見るだけが一緒にいる時間だ。夫はお喋りではないので話題がなく、私も家でデザインをしているだけなので話題がない。食事と風呂を済ませたら寝るだけなので、一日で顔を合わせているのは二時間程度だった。少ない休日も、平日の仕事の疲れからゴロゴロすることが多かったので、食料品の買い物に行くだけ。
そういう生活の人だと分かっていたが、新婚なのに寂しすぎた。
 そんなある日、仕事で一緒になったデザイナーさんに呑みに誘われた。
「知らない人がいっぱいくるから、沢山名刺を持ってきてね。名刺を渡す時に作品もプレゼントしちゃえ」
 と、よく分らないことを言われた。行ってみるとそこは異業種交流会というもので、人脈を求めた老若男女がおしゃれをして、お酒と会話を楽しんでいた。
 完全に人間不信だったので、こんな集まりだと知らなかった私は後悔した。すぐに帰りたくなったが、もじもじする暇もないくらい次から次へと話しかけられた。名刺をもらうと、歯科医だの弁護士だのデイトレーダーだのとお金持ちそうな人もいたし、包装資材の会社や、食品開発や販売の会社など、デザインの仕事に繋がりそうな有名企業、そして伝統工芸の職人からネオニートまで、職種は様々だった。役職もCEO、部長、課長、平社員など様々だったが、どの人も「ここで仕事を勝ち取りたい」と顔に書いてある、野心家そうな印象だった。
 私の作品の専門デザイナーは珍しかった。なんせ、今それを名乗っているのは日本で私だけである。どの会社もこぞって「いいノベルティーをつけたい」と思っているようで、決裁権のある人からは「見積送ってよ」と声をかけてもらった。冷やかしだと思ったが、実際に送るとアポの電話をくれる人もいて、仕事になった。
 すると生活が充実し、潤うのでまた呑みに行くお金ができた。仕事が欲しかったわけでなく、寂しい生活の中での「ちょっとした楽しみ」が欲しかった。
 昼間は忙しく仕事と家事をして、夕方に夫の夕食を作り、時々おしゃれをして出かけてた。異業種交流会で出る軽食で晩御飯を済ませて、会話を楽しみ、夫からの「帰るメール」がタイムリミットの合図で帰るシンデレラだ。
夫が食事をしながらテレビを見ている間に、明日の弁当と朝食を仕込んでしまえば、あとは充実した今日を噛みしめて寝ることができた。
 もちろん夫を愛しているので、浮気のつもりもないし、「今日もお仕事がもらえた」と言うと夫も喜んでくれていた。
 何度も行くと、顔見知りができるようになった。
 そこで出会たB子さんは、在宅でWEBデザインの仕事をしている大人しい女性で、気が合った。二人で隅っこで呑んでいると、静かに会話が弾んだし、声をかけてくる人がいれば「〇〇(私)さんの作品は凄いんですよ。めちゃくちゃ綺麗で女性に人気があります」「B子さんはお仕事で細かな気遣いをしてくれるので絶対クライアントを満足させてくれますよ」と、お互いをプッシュし合った。
 ある時、B子さんはかなり酔っ払って、身の上話を始めた。
 彼女は、幼い頃に父が病死し、物心ついた頃に一緒に暮らしていた父は「二人目」の男性だったそうだ。しかし、幼稚園の頃から二人目の男性が、母親を殴るようになり、怖い思いをした。小学校低学年の時に、母親が違う男を作って一緒に逃げた。
 三番目の男性は金に汚く、金持ちでいい家に住んでいるのに母親や自分には一銭もくれなかった。三人で食べる朝食と夕食は出してくれたが、それぞれに食べる昼ご飯代は出してくれなかった。母親はパートに出てお金を作り、自分の昼ご飯を確保した。
 B子さんは給食費を出してもらっていたが、遠足などイレギュラーな日や、三人目の男性が出張で帰ってこない日の食事も、自分たちで支払わなければならなかった。要するに、自分と同じ席で食べる食事は「ご馳走する」という感覚だったらしい。
 ある日、知らされていなかった代引きの荷物が届いたが、その日母親は手持ちが少なく、立て替えられなかった。三人目の男性宛の荷物だったので、彼の管理しているお金から支払って受け取ると、中身は梱包資材しか入っていない、代引き詐欺だった。
 それをきっかけに三人目の男が「お前は金に汚い女だ!」「貧乏人が俺の金に手を出すな!」「詐欺に遭った分は水商売でもなんでもして返せ」と激怒し、毎日顔を見るたびに「泥棒!」と怒鳴るようになったそうだ。
 詐欺にあった金を翌月のパート代で返すと、機嫌が直り、高級レストランに外食に行ったり、宝飾品を買ってくれたりしたが、その度に「お前たち貧乏人がこんな体験ができるのは誰のおかげだ?」と聞いてきて「あなたのおかげです。ありがとうございます」と言わなければならなかった。そんな気分では、どんな高級な料理も美味しくなったため、離婚届を置いて逃げた。
 四人目の男性は、経済状況は普通だったが、母親と同棲をした一年後に会社をクビになり、酒に溺れた。暴力は振るわなかったが、一日中家で酒をのみ、母のパート代で生活し、次第に心が病んで、手首を切ったり、死にたいと泣いたり、B子さんの母親の金で睡眠薬を買って自殺未遂をするような人だった。
 男に懲りた母親は、B子さんと二人の生活に切り替えたが、三番目の男の元に置いてきた離婚届を、男が提出してくれていなかったことが発覚し、シングルマザーが本来受けられる手当を受けることができず、貧乏で苦しかった。しかもこれまでのストレスで、母親は心を病んでしまい、B子さんはずっと母親に怒鳴れ、束縛され、依存され、苦しんで生きてきた、と聞いた。
 そこから自立して、アルバイトをしながら専門学校を出て、WEBデザイナーになった彼女のことを尊敬した。
 就職後、母とは連絡を取っていないと言っていた。
 ここに通っているのは、仕事をもらえる可能性があるし、自分の過去を知らない人と気軽に話ができるのが楽しいからだそうで、そんなところも私に似ていると思った。
 実は私も、両親が不仲で苦しんできた過去があることを少しだけ話したが、最初は「えー、そんなの嘘。話を合わせなくていいよ」と信じてくれなかった。何度か会う間に、私が少しずつ話したので、だんだん信じてもらえるようになり、本当の意味で心の通う素晴らしい友達になった。

 B子さんは、中学生時代にあまりにも貧乏な上、母親が心を病んでいたので、児童相談所経由で社会的養護施設に引き取られた経歴があった。大人になるまで、自宅と施設を行ったり来たりしたそうだ。その時にできた同じ傷をもつ友達と、大人になっても連絡を取り合っていた。
 その集まりに、私も連れて行ってもらったことがある。皆、明るそうだが、少し影があって、でもなるべくこの時間を楽しもうと、一生懸命色んな話をしてくれるいい人たちだった。
 過去の話を聞くと、皆「両親の不仲」で傷ついていた。皆共通して、問題のある父親の話と、その父の問題行動で受けた被害の話、そのせいで病んだ母に攻撃された話をした。逆のパターンもいた。
 自分の話をすると泣いてしまうし、人の話を聞くと、また泣いてしまった。私の親の話ではないのに、自分の親が怒鳴るフラッシュバックが何度も起きた。それでも、聞きたかった。これは貴重な機会だと思ったからだ。
 そして、私が、自分の知識の限りを尽くして、皆の苦しみとなっているモヤモヤを言語化する作業をした。一人一人の苦悩を聞いて「これはきっと、こういう行動だね」「それはこういう名前の心理現象だね」「親はこう思っていたんじゃないかな」「あなたの行動はこういう心理からくるものだから、危険な思想じゃないよ」「あなたは悪くない」と、一緒に心の中のモヤモヤを紐解いていった。それは、「自分達が見聞きしていたあの時間は、虐待だった」と深く知ってしまうことなので、大変つらかったと思う。
 私は言語化するだけで、アドバイスはしなかった。その分、彼女たちの言葉に共感の態度を見せた。フリではなく、痛いほどよく分かった。皆、最終的にはホッとすることができたようだった。そして「私の友達も苦しんでいるから、その子にも教えてあげるね」と言ってもらえて嬉しかった。私も皆に共感とアドバイスを沢山もらった。
 名前のない苦しみに、しっかりと名前が付いた。その苦しみに向き合っていくかどうかは本人たち次第なので、あまり踏み込み過ぎず「無理しないでね。いつでも話を聞くからね」と約束し合っていた。それから、私は色んな人の紹介で、色んな虐待被害者と会って、話を聞く会を開催していた。

 実はこの「お互いの話を聞き合う」というのが私の回復に一役買ったのである。
 依存症を直す時、治療の一環として自助グループを作り、同じ悩みを持つ人たちが、自分の体験を打ち明け、認め合い、解決方法を一緒に考える、ということをする。私達は依存症ではないが、自然にこの自助グループの作用を持つ活動をしていたのだ。よく考えれば、子どもの頃、可愛そうな体験を持つ人のエッセイやノンフィクションばかり読んできたことも、自助グループと同じ作用を持ち、私の精神を支えてくれていたのかもしれない。
 この活動で、私だけでなく、皆が徐々に癒されていった。

 ところが、面前DVの仲間と濃密になってから半年も立たないうちに、B子さんが亡くなった。

(後半に続く)

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