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「愛」がわからなくなった私が、本当の意味で「愛」を受け止められるようになるまでの話 【前編】
今日の話は、私がどうしても受け入れられなかった「愛」の価値観の話。
…私が思う「愛」と、家族が「愛」と思っているものは、少し違うんだな、と思ったことと、
私が長年上手く受け止められなかった「愛」があった時期のことを、特定されない程度にぶっちゃけてみようかな、なんて思います。
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受け取ってた「愛」を、「愛」と思えなくなった
…前から、少し疑問に感じていた。
両親から言われていた、
「あんたの為と思って言っているんだ」という言葉。
学生時代、良くないことが起こるたび、叱られるたび、だいたいこの言葉がくっついて来てた。
私の将来を思ってくれている…、そう思って、わりと何を言われようと『親からの意見』を尊重するようにしてた。
もちろん、私にだって反抗期はきっとあったはず。…親に手を上げたことも…きっとあると思っているんだけど…実はあまり覚えていない。
いわゆる、私は「いい子」でいようとしていた。
でも、私は小学校時代とかまさに、親も先生も悩ませるくらいの問題を引き起こしてしまっていたので、…「いい子」はあくまで外面の話。化けの皮が剥がれてしまえば、わりとどうしょうもないほど、『人の話を聞かない』子どもだった。
だから、よく、力技でねじ伏せられた。
物理攻撃はそこまでない…がなかったわけではない…たまにはあった、けど世間一般のいわゆるソレではない、と思う…一時の感情の昂りで出て来てしまっただけなのだと思う…
これは、躾として…『悪い行いを正すために』両親が胸を痛めながら、仕方なくやったこと…
そう、思うようにしてきた。
それが、両親からの「愛」。
そう考えて、私は生きてきたところがある。
両親が話す私像に当てはまらないエピソードは、多分、他の人たちは知らない。だから、人の認識をひっくり返す(事を大きくする)のは好ましくないことだと、この頃は、なんとなく思っていたんだと思う。
私は、事を大きくすることが、大の苦手である。
出来れば穏便に済ませたい。
穏やかに暮らしたい。
私が我慢することでそれが叶うなら、小学校の学年を巻き込んだ騒ぎの後、基本的には、そうするようにしていた。
自分で騒ぎ出すといつも言われるのが「悲劇のヒロイン」ってやつ。…私はこういう扱いをされるのが本当に嫌いだ。でも、私も耐えきれなくなると、こうなってしまうことを知っていた。そんな自分は人に迷惑をかけるから、大嫌いだった。
だから、親のアレコレに対して、泣きつく相手はできる限りつくらないようにした。だって、一人っ子だったから、このことを知っているのは、両親と私だけだ。親族も遠方でなかなか会えない土地に住んでいたし、親に対して、『親は偉い』『期待に添えない私は悪い娘』って考え方をしていた…他人に自分の親の愚痴も極力言わないようにした。
「愚痴を言う前に努力しろ」
それが、我が家のお決まりの説教フレーズだった。克服できないなら頑張りが足らない…そういう考え方が、『あたりまえ』だったのだ。
…この価値観が、高校生ぐらいまでは、当たり前だったのだが、中高生時代に、ネットの交流、当時知られ始めたSNSを始めて、そこで声も公開するようになってからは、私がのめり込み気味になったのもあって、
私のしたいことを、両親が力技で、封じてくるようになることが増えた。
(いいつけが守れないから)取り上げられたり、隠されたり、壊されたり…今手元にある端末の何代か前は逆パカされたこともあるし、高校生のときはSkype中に親から突撃されて、通話中に切断され、そこからグループメンバーが、かなりざわついたり…と、『私の両親の怖いところ』が趣味での繋がりには知られるようになっていった。むしろ、私の趣味を理解して関わってくれた人しかこんな話を知らない。
そんなことを繰り返しているうちに、
『私のやりたいこと=悪』みたいな認識を私が持ち始めるようになり、
こんな悲しい気持ちになりながら、受け取る『両親からの愛』…これは「愛」なのか…?
なんて、ほんのり、疑問に感じはじめたりしたのだ。
大学生時代のひとり暮らし、「自由」が増えて、気づけたこと
両親の規制が功を奏したのか、私はなんとか、大学進学をすることが出来た。
大学は県外だったので、ひとり暮らしをすることになった。内心、かなり楽しみだった。
ちょっと私の親は、私がひとり娘であるがゆえに、愛が過剰…
なんとなく、そんなことを思い始めてたときに、親より別のものを優先して連絡をとらない日が続いてしまったことがあった。
もちろん、こっぴどく叱られた。連絡が取れないからと言って、下宿先のご近所さんが両親から依頼されて安否確認に来るようなことにまでになり、(ここまでする!?)なんて思ったりした。大学の友人の連絡先を教えろ!なんて言われたこともあった。
…さすがに親の考える「愛」のカタチは『少しおかしい』と思い始めた。
私がトラブルを起こすと、母からの注意だけでなく、決まって両親から一斉に説教が始まる。しかもだいたい母がキレて父が肩を持つ。
…言い返したりはするけど、私は基本、言われっぱなしになって、説き伏せられる。私に反論の機会は与えられない。言い返しても被せられて、ペースを乱される。
これが当たり前だったから、疑問を持つまでに時間がかかった。でも、高校時代から築きはじめた趣味の繋がりは、この考えの『違和感』を教えてくれた。
趣味の人たちは、私のやりたいことに、賛同してくれることが多かった。いい意味で巻き込んだり、巻き込まれたり…いろんな「きっかけ」を持ち寄って、たくさん話した。リアルの友人よりも私のあれこれを知ってくれる、考えてくれる人が多かった。
好きなアーティストさんが同じという、繋がりだったのだが、ファンのみんなが大切にしている考え方が、
「人それぞれの解釈、考え方があって、答えはけっして一つじゃない」と、
ざっくり伝えるとこんな感じで、そのファンである彼らも、そういう考え方を許してくれる人たちだった。
そんな関わりの中で、両親の、私の為に、私の「自由」を認めないことを、「愛」と思う、というのは、普通ではないのでは?と、周りとの違和感をこのあたりから、感じるようになり、だんだん、考え方、行動を押し付けてくる、親のことを少し疎ましく思うようになってしまった。
血は繋がっていても、両親と「分かり合えない」ことを知る
大学時代はひとり暮らしだったこともあって、趣味の活動はとっても活発に行っていた。ライブにも行ったし、オフ会も何回か参加した。個人でも、曲を友人と一緒に作ってみたり、生配信系を始めてみたり…、本格的に「歌ってみた」も周りの友人の協力を得て数本上げてみたりしていた。
でも、実家に戻ってくると、そうもいかない。結局、ほとんど休眠状態で、みんなが楽しく活動するのを横目で眺めて過ごすようになった。やはり、リアルが大事だったために、
仕事に全力を注ぐ、宗教活動に活発に参加するということをやるしかなかった。
…どうしても、両親の目もあるから、宗教活動は、頑張らなくてはいけない項目だった。
数年経って就職してしばらく立った頃、仕事もようやくいっぱいいっぱいになる機会が減り、少しずつ、趣味の活動もやりようによっては出来ることもわかってきて、とある音楽系アプリを始めた。この時、検索しやすく、人と被らない名前を使いたいな、と名義を今休眠させている名義に変えた。
念願の横文字名義。歌にはかなり自信がついてきていた。そのため、一気に生活に音楽が入ってきた。楽しくて楽しくて仕方なくて…私の悪い癖なのだが、少しのめり込み気味になっていった。
のめり込みが始まった結果、起こったのは、慢性的な睡眠不足と昼間の異常な眠気…食欲不振、朝の吐き気など、身体にも露骨にガタがきた。
仕事が思うようにいかなくなり、その心を癒やすために音楽を楽しむようにした。代わりに眠りのトラブルで、仕事がどんどん辛くなっていった。趣味の方は繋がりも増えて、どんどんやりたい事が出てきた。仕事は破綻寸前。あまりにも趣味の世界とのギャップが激しくなった。
…今思えば逆転し始めた気がする。趣味を続けるために、仕事も頑張る…というモチベーションに変わってしまったのだ…今なら仕事が出来なくなったのも必然だと思える。
そして私は、仕事場で役割を果たすことが難しくなり、療養をとることになった。たしかに自業自得ではあるのだが、ここからの両親との関係性の悪化がより私を窮地に追いやった。
…忘れもしない、とある夏の祝日に、私は職場から短時間勤務を命じられていたため、お昼前に帰宅することになった。
実は、この日を境に自宅謹慎が始まった…
祝日のため、普段はいない、父がいる。
…帰宅して始まったのは、2対1の説教。
怒りのボルテージマックスの母と、その母の肩を持つ父
…職場ですでに心が擦り切れてボロボロの私はただただ両親からぶつけられる剛速球を受け止めるだけ…
耳が敏感すぎる私には、苦手な声のトーンがある。母のどなり声はどうやらそれのようで、普段から不満を言うときにちょくちょく聞かれる苦手な声。その度小さく心が削られていたのだが、手がつけられないほど熱くなると、もうそれは私にとっては凶器にしか思えない。それほどに恐ろしく強力で弾き返す力などなかった。…オーバーキルを決められすぎて、メンタルがズタズタになっていくのが感覚でわかった。
この構図に、もう私は限界寸前まで心を削られていたのだった。
いくら駄目でも、ここまではさすがに、酷くない?また、全部を趣味のせいにするの?(大学時代も趣味やアカペラを理由にして叱られたことがある)
私のしたいことって、そんなに許されないこと?
私、もう大人だよ?自分の判断で自分の大切にしたいことを選んで、大切にするのって間違ってるの!?
声にならない叫びが心の中にこだまして、私の心はどうしようもないレベルで、傷を負った。
どこにも味方のいない私は、両親に対して明らかな『嫌悪感』が湧き上がった。
「愛」があると思っていた、我が家の両親との距離感や、家庭のあり方に、納得がいかなくなるのは…ここまで来たら、もう時間の問題だった。
✽
長くなりそうなので、今回はここまでにします。
次回は、自宅謹慎まで陥り、私を支えていた家族、趣味、仕事のバランスが全て崩れさってしまった私が、ある意味衝動的でもあり、長年の我慢の限界と考えればようやく行動できたことで、周りにどんな問題を起こすことになったかについて、話せる範囲で話していこうと思います。
この話の数日後…結構、行動力の必要なことを、周りの支援を受けながら、やってのけました。
世間的にはあまり認められることではないですが、行動こそ、私の心のSOSだった、と思いますので、お話してみようと思ってます。
そこでの、両親の行動も併せて…もちろんかなり私主観のお話になるので鵜呑みにはしないでもらいたいですが、私にはこうとしか思えなかった、みたいなお話もしたいです。
そして、そんなズタズタになっていた私を救ってくれた、
いくつかの「愛」についても、書く予定ですので、
更新を待っていてもらえたら嬉しいです。
⚠「優しさのリレー」の話も実は、この時期のお話です。
よければこちらの記事も読んでみてください。
「愛」に触れた過去記事、学生時代を振り返った「人の痛みがわかる人に」と願った話を
読み返すと、より、この話が面白く読めるかもしれません。
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【追記】
後編、執筆完了!
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