塩野七生 二人の妻と九人の子供と 日本人へ224
文・塩野七生(作家・在イタリア)
『満韓ところどころ』の中で、漱石はこんな一行を書いている。「旅順には佐藤友熊という旧友があって、警視総長という厳しい役を勤めている。これは友熊の名前が広告する通りの薩州人で、顔も気質も看板のごとく精悍にでき上がっている」。これで始めて納得がいったのだ。大久保利通が息子たちの名に、そろいもそろって「熊」の字をつけていたのが。
正妻で薩州女のます女から生れた4人は、彦熊、伸熊、三熊、雄熊。ゆう女のほうは京都の一力亭の娘というから京女にちがいなく、その愛人からも大久保は4人の男子を得ているが、こちらの子たちの名も達熊、駿熊、七熊ときて、暗殺された年に生れた末っ子は利賢。3人目だから三熊で7人目は七熊とは相当にいいかげんな気もするが、なにしろ正妻と愛妾の2人から得た子は合計して8男1女。彼得意の即断即決で、子たちの名もつけていったのかも。
しかもこの生産性は、わずか20年の間の成果なのだ。暗殺で終るまでのこの20年の大久保は、日本に留まらず中国や台湾やアメリカにヨーロッパと足を伸ばしていたのだから、東西を股にかけての奔走に明け暮れていたと言ってもよい。よくもこれだけの数の子を産みつける時間があったものだと、それには心底感心した。
ちなみに男の子たちはその後、「熊」つきの名を改名している。もはや明治の政界の第一人者になった大久保利通の息子である以上、薩州人であることの広告も看板も必要ではなくなったのだろう。また大久保自身からして、薩州人から日本人に脱皮していった男である。もしかしたら父親の断固たる一声で、彦熊は利和に、三熊は利武に改名されてしまったのかも。
しかし子供とは、男が望めば生れるというものではない。女のほうも「いいわよ」とならないと生れない。大久保利通の女の操縦法が、これまた見事なのだ。
1871年、大久保41歳の年、岩倉具視が正使で大久保と木戸孝允が副使の遣外使節団が横浜から発つ。それに大久保は12歳の長男と10歳の次男を同行させ、息子2人は最初の寄港地のアメリカで落とし、アメリカ人の家にホームステイさせると決めた。これに、まだ鹿児島にいた正妻が心配する。母親ならば誰でも心配すると思うが、その妻に大久保は、女では説明したってわからないのだから黙って従え、なんてことは一言も言わない。理をつくした優しい手紙を送るのだ。
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