プーチンが心酔するロシアの怪僧 古川英治
無謀な戦争を仕掛けた裏にはロシア正教会の“闇”があった!/文・古川英治(在ウクライナジャーナリスト)
「最も安全」と言われた大修道院が…
ウクライナ西部の都市リビウで、春の日差しうららかな週末の街の空気が一変した。空襲警報が鳴り響くと間もなく爆音が響き、中心部に近い通信塔の方から黒煙が上がった。けたたましくサイレンを鳴らす消防車が現場に向かい、母親たちは慌てて子供を抱えて走る。呆然と空を見上げる老女がつぶやいた。「狂ってる」。こんな光景はウクライナ各地で常態化している。侵略に突き進むロシア大統領ウラジーミル・プーチンにとって、これは「聖戦」なのか。
そうした中、首都キーウではロシア軍の侵攻が始まる前、「最も安全」と言われてきた避難場所がある。ドニエプル川を望む丘に建つ世界遺産、ペチェールシク大修道院だ。
ペチェールシク大修道院は東スラブ民族の最初の国家であるキーウ公国の下、11世紀ごろに創建された。修道士らは当初は丘の中腹の洞窟に住んでいたが、現在はその上に荘厳な教会が立ち並ぶ。洞窟の回廊には、多くの聖人たちのミイラが安置される。訪れた信者たちはミイラの前で跪き、接吻を捧げる。
ここはモスクワ総主教庁(ロシア正教会)の管理下にある。多くのロシア正教信者にとって、ペチェールシク大修道院は「信仰の中心」であり、アイデンティティの拠り所ともいえる存在である。
だからこそ、ペチェールシク大修道院は安全だとされていた。キーウ公国を「ロシアの祖」と主張するプーチンが、仮にキーウを攻撃したとしても、修道院を破壊することはない、教会も信者や困窮している人々を保護するだろう——。
ところが2月24日にロシアが侵攻を開始すると、ペチェールシク大修道院はすぐさま門を閉ざし、信者や避難民を入れなかった。その頑丈な門扉には「教会のスタッフ以外の方には一時的に閉鎖します」とだけ書かれた紙が貼られていた。
門を閉じたのはペチェールシク大修道院だけではない。キーウにあるロシア正教会傘下の教会は、ロシアの侵攻が始まると閉鎖するところが目立った。市民の間では「ロシア軍の工作部隊の拠点として、武器や弾薬が貯め込まれている」といった憶測すら飛び交った。
ロシア正教会のトップである総主教キリル1世のウクライナ侵攻に対する振る舞いを顧みると、市民の間に流れるそんな憶測もあながち外れていないように思えてくる。
キリル1世は今回の侵攻前から「ロシア軍はロシアの人々のために平和を守っている」などと発言。侵攻後も、プーチン政権を批判したり停戦を求めたりすることはなかった。
そればかりか、キリル1世は3月9日、ウクライナ侵攻を支持するように、こんな説教をしてみせた。
「ロシアとウクライナは同じ信仰と聖人、希望と祈りを分かち合う一つの民族だ」
「(外国勢力が)私たちの関係を引き裂こうとしている」
「悲劇的な紛争は、第一にロシアを弱体化させるための(外国の)地政学上の戦略になっている」
プーチンがウォロディミル・ゼレンスキーを欧米の支援を受ける「民族主義者」「ネオナチ」と呼び、侵略を正当化するのに呼応している。
モスクワ総主教のキリル1世
戦争は「ウクライナ人の罪への報い」
キリル1世の言動は、ロシア正教会傘下の聖職者の多くにも浸透しているのだろうか。3月初旬、ロシア軍の攻撃で壊滅的な状態に陥った東部ハルキウから西部の街リビウまで、20人の女性と子供をバスに乗せて避難させたボランティアのイリナさんが、こんな体験を語った。
ハルキウから約1000キロの道程を逃げる途中、イリナさんは各地の教会の避難シェルターを頼りに寝場所や食事を確保してきた。リビウから150キロ東に位置するポチャイウにたどり着くと、ペチェールシク大修道院と同じくロシア正教会系の教会が拠点としている歴史的な大修道院に支援を求めに行った。ところが、「避難民を収容する場所はない」と冷たくあしらわれた。
その大修道院の司祭は、今回のロシアの侵攻について、こう言い放ったという。
「この地(ウクライナ)の人々は罪深い。これ(戦争)はその罪に対する報いだ」
たまらずイリナさんが「子供や女性を殺害しているプーチンこそ悪魔ではないのか」と反論すると、「プーチンの過ちではない、神がお決めになったのだ」との答えが返ってきたという。
子供の頃から家族とともにロシア正教会傘下の教会に通ってきたイリナさんは、言葉を失ったと話す。
「これまで全く馴染みのなかったプロテスタントの教会を含めて、ほかの教会は温かく迎え入れてくれたのに。もう2度と、ロシア正教会系の教会にはいかない」
聖職者とは思えない発言を繰り返すキリル1世らの姿勢からは、ロシアの今回のウクライナ侵攻が「宗教戦争」の意味合いも帯びていることが見えてくる。
ウクライナ国民の7割は東方正教会の信者とされる。キリスト教の3大教派の1つである東方正教会は、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を中心に、東ローマ帝国の国教として発展してきた。現在ではロシアや東欧、ギリシャなどを中心に、世界で約3億人の信者がいる。
ウクライナの正教会の構図は、東西の勢力争いの場となってきた同国の歴史を映し出すように複雑だ。ロシア正教会傘下の教会と、2019年に独立を果たしたウクライナ正教会、正教の教えに従いながらバチカンに仕える東方カトリック教会の3つがある。ウクライナ西部に多い東方カトリック教会は、ポーランドによる統治時代に創設されている。
今回のロシアのウクライナ侵攻を巡っては、ローマ教皇フランシスコや、東方正教会の第1人者であるコンスタンティノープル全地総主教バルソロメオス1世らが相次ぎ戦争を非難し、停戦を訴えている。
そんな中でプーチンの侵略を支持するキリル1世の姿勢は、この人物の来歴を振り返れば、驚きではない。「ロシア正教会はロシア政府の一機関」と言われるほど、キリル1世はプーチンに寄り添ってきたからだ。
プーチン大統領と握手するキリル1世
核兵器を「祝福」する
75歳のキリル1世はロシア第2の都市サンクトペテルブルク出身。ソ連時代にはKGB(国家保安委員会)の工作員だったとの噂も絶えない。プーチンは自らの出身地であるサンクトペテルブルク出身者やKGB時代の同僚らを引き上げており、キリル1世が2009年にロシア正教会トップの地位を射止めた理由はそこにあるとの見方もある。
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