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【時津風部屋リンチ死】大相撲の「膿」は消えなかった

2007年6月26日に起きた時津風部屋リンチ死事件。名古屋場所の宿舎において、入門したばかりの新弟子、時太山(本名・斉藤俊さん、17)が急死をとげた。師匠の時津風親方(元小結双津竜、本名・山本順一)は一貫して「稽古中に起きた不慮の事故」と釈明。ところが、翌月、武田氏が「時太山はリンチで殺された」とスクープするや、一気に風向きが変わるのだ。/文・武田賴政(ノンフィクション作家)

風向きを変えたスクープ

一本の告発メールが私のガラケーに届いたのは“事故”から一週間ほど経った七月場所(名古屋)最中のことだった。文面を目にしたときの衝撃は、14年経った今でも鮮明に記憶している。

メールの主は、時津風一門の相撲部屋に所属するAという若手力士。他部屋であっても同門であれば付き合いは深い。当時も角界ではパソコンよりも携帯電話でのやりとりが一般的で、兄弟子、師匠の愚痴はもちろん、耳寄りな情報や機密事項が力士間を瞬時に駆け巡っていた。

私はAとメールを幾度となくやり取りした上で、事実関係を確認。千秋楽の翌日、7月23日発売の「週刊現代」で事件の真相を報じた。

その後、刑事事件化への機運がようやく高まったのは、愛知県警の捜査が具体的に始まった9月下旬のこと。朝日新聞をはじめとする他メディアも一斉に追随した。

斉藤俊さんの死が、社会を揺るがす大問題に発展したのは、ひとえに息子の凄惨な遺体に接した、両親のやり場のない憤怒に尽きる。

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父親の正人さん

ビールの空き瓶で殴打

被害者となった俊さんは、新潟市内で食堂を営む斉藤正人さんと利枝さん夫妻の長男として、1989年10月に生まれた。事件当時17歳、高校を中退したばかりだった。

中学から柔道を始めた俊さんは、卒業文集に〈ボクサーになりたい〉と書くほどの格闘技好き。身長182センチ、体重112キロと恵まれた体躯だったが、実は相撲経験はなく入門意思も希薄で、素行にも問題があった。

当時、父親の正人さんは、私の取材にこう語っている。

「高校までの俊は、手のつけられないほどのワルではなかったのですが、同級生をいじめたとされて無期停学処分を受けた。そのあとすぐに喫煙が発覚し、自主退学となったのです。もともと格闘技の好きな子でしたから、将来は『K-1』の道に進みたいという思いもあり、知り合いの誘いに応じ、時津風部屋に入門を決めたのです」

2007年4月、俊さんは時津風部屋に入門。翌月の東京場所の初土俵では1勝3敗に終わるものの、場所後に「時太山俊」の四股名を与えられた。

入門直後から俊さんは素行不良を咎められることが少なくなかった。近隣住民に喫煙を注意されることもあった。五月場所の後には部屋から度々スカして(逃げ出して)いる。いずれも相撲部屋の生活になじめず、兄弟子たちからの制裁に耐えかねてのことだった。親方にとって手のかかる新弟子だったのは間違いないだろう。

7月の名古屋場所にむけて、犬山市の宿舎に移動したのは6月22日。俊さんはその3日後の25日の朝にも宿舎から逃亡をはかるが、このスカシがリンチの引き金となったのだ。宿舎近くのコンビニで俊さんを見つけた兄弟子たちは、近くの河原に連れ出し、俊さんに跳び蹴りや殴打を加えた。俊さんの顔はみるみる腫れ上がり、履いていた靴は脱げ、泥まみれになっていた。

暴行は続いた。その日の18時過ぎ、宿舎のチャンコ場(食事場)でのことだ。時津風親方は俊さんを傍らに正座させ、ビールを飲みながら説教を垂れていた。周囲を、10人ほどの幕下以下の弟子たちが囲む。正座がきつくなった俊さんが膝を崩すと、すかさず兄弟子が罵声を浴びせながら蹴り倒し、顔を踏みつけた。

こうした弟子による暴行の間もビールを飲み続けていた時津風親方は、大瓶5~6本を飲み干したところで、空き瓶を逆さに握り、自ら俊さんの体を叩き始めた。

やがて感情が高ぶったのか、瓶の底で頭部を狙って、何発か叩いた。そのうちの1発が額に入り、2~3センチほどぱっくりと割れた。鮮血が顔に垂れかかると、親方は弟子たちに向かってこう言った。

「お前らもやっていいから」

師匠の指示で動いたのは、3人の兄弟子。

「こいつに気合い入れてきます」

稽古場脇の物置に俊さんを押し込むと、3人は、10分間ほど殴る蹴るの暴行を加え、さらには稽古場の鉄砲柱に縛り付けて執拗に殴り続けた。

朦朧とした状態の俊さんが再びチャンコ場の親方の前に連れ戻されたのは、23時を回っていた。師匠の指示による暴行が始まってから1時間以上が経っている。

「心を入れ直して頑張りますので、もう一度チャンスを下さい」

息も絶え絶えで発した俊さんの言葉を、「ダメだ」と師匠は聞き入れることなく自室に下がった。

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斉藤俊さん

愛知県警は「事件性なし」

翌26日の暴行も苛烈を極めた。朝稽古終了後、見学者を稽古場からわざわざ遠ざけた親方は、兄弟子たちに命じ、俊さんにぶつかり稽古を命じる。前夜に散々痛めつけられている俊さんはすぐに息が上がり、数分後に倒れ込んだ。

そして前夜同様の集団リンチが繰り返された。ある力士は金属バットを持ち出した。「やめとけ」と親方がさすがに制止したが、裏山から拾ってきた太い枝で打擲し始めても、それを止めることはなく、じっと見守っていたという。

11時過ぎ、俊さんは土俵に突っ伏したまま意識を失う。親方は、そんな俊さんを稽古場の壁際に座らせ、まるで弄ぶように数分間にわたりホースで水を噴射させたり、湯をかけるなどしたのだ。

心肺停止状態となったのは12時40分頃。命が危ないと思った部屋の若い衆が、119番で救急車の出動を要請し、搬送先の犬山中央病院で死亡が確認された。

病院は死因を「急性心不全」と診断。さらに愛知県警は遺体の検視を怠ったにもかかわらず、病名を「虚血性心疾患」に換え、「事件性なし」と発表したのだ。

「俊が死にました。死因は急性心不全です」

父の正人さんは、時津風親方からの連絡で、息子の死を知ることとなるが、当時の様子を次のように語っていた。

「親方の口調は本当に事務的だった。すぐに愛知県警犬山署の警察官に受話器を渡したのです。警察官から俊の生年月日や病歴を尋ねられました。俊が死んだと知り、パニック状態になった私には、不審な点を質問する余裕はなかった。『急性心不全』。ただその言葉だけが頭の中をぐるぐる回っていました」

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元時津風親方

正視できない遺体の惨状

俊さんの亡き骸が新潟の実家に帰ってきたのは、その日の23時頃だった。遺体の付き添いは葬儀社の職員2名のみ。時津風部屋の人間は誰もおらず、遺体に添えられた「心不全」の死亡診断書は、正人さんにとって、まるで荷物の「送り状」のように感じられたという。

遺体は「心不全」という病名から想像のつかない惨たらしさだった。全身どす黒いアザだらけ。頭部に巻かれたバスタオルを外すと、傷だらけの顔はいつもの倍の大きさに腫れあがっている。唇と耳は裂けて出血するなど、家族にとってとても正視できるものではなかった。

正人さんから何枚もの遺体写真を見せてもらったが、額の中央やや右寄りに2センチほどの裂傷があった。親方にビール瓶で叩かれた時に負った傷だった。

「心不全と聞いていたから、まさか俊の遺体が傷だらけとは思ってもみなかった。心の準備ができておらず、遺体を目にして仰天しました。家内や義母も悲鳴を上げて半狂乱状態でした。小学3年だった俊の妹に、『見ちゃだめ!』ととっさに家内が抱き締めたのですが、遅かった。その後しばらく娘は、俊の部屋に足を踏み入れられませんでした」

茫然自失状態の正人さんをよそに、行動を起こしたのは、妻の利枝さんだった。すぐさま時津風親方の携帯を鳴らし、病名と大きく異なる遺体の状況を激しい口調で質した。

時津風親方は要領を得ない説明を繰り返すばかり。不信感を募らせた利枝さんは、翌日の午前中に愛知県警犬山署にも電話を入れ、事実関係を確かめたが、「事故死で事件性はありません」との回答だった。

正人さん夫婦への説明のため、時津風親方が妻をともない新潟に到着したのは同日15時頃のことだった。斉藤家の人々が遺体を指し、説明を求めても、親方は俊さんから目を背け、「稽古の上でのこと……」と答えるのみ。正人さんら遺族は、親方の態度に何かを隠しているのではないかと疑念を抱いたという。

時津風親方の説明に納得のいかない正人さんと利枝さんは、一度決めていた通夜、告別式の日取りを白紙に戻す。そして親族の反対を振り切り、地元の新潟県警に相談。新潟大大学院法医学教室での「公費承諾解剖」(遺族の承諾を得て、公費で行う解剖)に漕ぎつけるのだ。

鑑定の結果は「多発外傷による外傷性ショック死」。暴行による殺人だった。

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