【蓋棺録】柳家小三治、さいとう・たかを、すぎやまこういち、森山眞弓、コリン・L・パウエル〈他界した偉大な人々〉
偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。
★柳家小三治
落語家の柳家小三治(本名・郡山剛蔵)は、登場人物の言葉の奥にある、笑いの「本域」を求め続けた。
小三治の師匠・柳家小さんは、ほとんど稽古をつけてくれなかった。二ツ目の頃「やってみな」というので『長短』を演じると小さんは黙ってしまい、ややあってぼそっと「お前の噺は面白くねえなあ」。小三治はショックを受け、しばらく考え込んだという。
1939(昭和14)年、東京の新宿柏木(現・北新宿)に生まれる。父親は小学校の校長で、母親は旧家の娘。5人のきょうだいのうち小三治だけが男子だったこともあり、母のしつけが厳しかった。
都立青山高校では落語研究会に入って活躍し、ラジオの「しろうと寄席」で15週連続で勝ち抜き、高校生落語家として注目される。しかし、教師を目指して、東京学芸大を受験し、意外にも「おっこちていて」愕然とした。
父親は「浪人するなら東大に入れ」というので予備校に通ったが、3カ月で嫌になり、小さんに入門を願い出た。同伴した父親は息子を大学に入れたいので「落語も教養が大切ですよね」と切り出したが、小三治が「いや、世の中進むほど、とぼけた噺が喜ばれるようになる」と反論する。小さんは「こいつは見どころがある」と思ったという。
当時、若手で頭角を現わしていたのは古今亭志ん朝と立川談志で、やがて小三治が加わることになる。2人と付き合う中で、「言葉の奥をのぞこうとする」自分の落語を意識したという。
69年、17人抜きで真打に昇進し、10代目柳家小三治を襲名してからも、観客と向き合いつつ、「面白い落語」とは何かを考え続けた。「なにせ、予備校を中退したので、今も受験生なんですね」。
ある時期から、小三治の落語は「枕」が長くなって「まくらの小三治」と言われた。『小言念仏』は、念仏を唱えながら周囲の些事に小言を述べ続ける噺だが、本題に入る前に延々と身辺を語って、いつの間にか本題に移行して観客を笑わせてしまう。
また『粗忽長屋』では、自分が死んだと信じた熊五郎の動揺を、ほとんど八五郎との会話だけで描き出した。「小さん師匠が教えてくれたのは『その人の料簡になる』ということでした」。
趣味も旅行、スキー、バイク、英会話と多岐にわたっていた。2014(平成26)年、落語で3人目の人間国宝に認定される。「落語にはあらゆる心の持ち方が秘められてる。噺家はそれに連なって、観客に伝えるんです」。(10月7日没、心不全、81歳)
★さいとう・たかを
劇画家さいとう・たかを(本名・斉藤隆夫)は重厚な大人向けの「劇画」を描き続け、多くの人気作品を残した。
初めて『ゴルゴ13』を『ビッグコミック』に掲載したのは1968(昭和43)年だった。「当初は10回という約束で、長く続くとは思っていませんでした」。この作品は50年余連載されることになる。
36年、和歌山県に生まれ大阪で育つ。父は定職に就かない道楽者。母が理髪店を経営して5人の子供を育てた。いじめられっ子だったが、小学4年のときボスを叩きのめし自分がボスになる。絵がうまかったが、父もうまかったので母は喜ばなかった。
中学生時代には漫画家の登竜門だった『漫画少年』に投稿する。テーマも絵も大人びていたので、審査員の手塚治虫は「少年はこんな漫画を描いてはいけない」と酷評した。ショックを受けるが、自分の作風は捨てなかった。
中学校を卒業すると、母に命じられ理容師学校に通い、16歳のときに姉と新しい理髪店を開業する。しかし、漫画があきらめられず、母とは1年の約束で漫画に専念し、『空気男爵』で貸本漫画家としてデビューした。
21歳のときに仲間の辰巳ヨシヒロや松本正彦などと上京し、国分寺で漫画を描き始める。59年、自分たちのリアルな絵の漫画を「劇画」と呼び、仕事場を「劇画工房」と名付けた。
60年に劇画工房が分裂したので、「さいとう・プロダクション」を設立し、『カウント8で起て!』や『無用ノ介』などを少年誌に連載する。68年には青年向けの『ビッグコミック』に、冷酷なスナイパーが活躍する『ゴルゴ13』の連載を開始した。
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