池江璃花子 完全密着記「もう死にたい」と漏らした彼女が「誰かのために泳ぐ」と決意するまで
「ボヘミアン・ラプソディ」に涙し、水の感触に心震わす――。「白血病」の公表から1年4か月、競泳のヒロインは何を考え、過ごしてきたのだろうか。「ありのままの自分を見てもらいたい」と語る池江さんの姿を追った。/文・宮内亮吉(NHKディレクター)
406日ぶりのプール
「なんかスカスカする。すごいいっぱいオフした(休んだ)後みたいな」
今年3月17日、406日ぶりにプールの水に触れた池江璃花子さん(19)の第一声だ。3日泳がなければ、感覚を失うトップスイマーの世界。水を掴みきれない感触に戸惑いつつも、体を沈めていった。
この日、普段の練習用水着でプールサイドに現れた池江さん。ただ、いつもと違ってコーチもいなければ、練習メニューもない。一瞬、そのことに戸惑ったという。「とにかくやるしかないか」。医師から出された条件は、水に顔をつけないこと。平泳ぎでおもむろに泳ぎ始めた。
「めっちゃ気持ちいいんだけど」
彼女らしい屈託のない笑顔だ。続けて背泳ぎで10数メートル。興奮を抑えきれない様子でこう口にした。
「すごく気持ちいい。すごい、すごい、楽しい。いいなぁ水泳選手」
406日ぶりのプール
プールサイドから「『腹5分目』くらいで終わっとくか」と声をかけられたが、池江さんは即座に「まだ『3分目』!」。笑い声に包まれた。
406日ぶりのプールは約30分間。新たな出発の日となった――。
5月9日放映のNHKスペシャル『ふり向かずに 前へ 池江璃花子 19歳』。私はディレクターとして退院後の池江さんに密着してきた。
出会いは2017年秋。前年のリオデジャネイロ五輪(100メートルバタフライ)で5位に入賞した池江さんは“燃えつき症候群”で苦しんでいた。タイムは伸びず、不安でレース前に泣くこともあったという。私は、再起を志す彼女の密着番組を手掛けることになった。迎えた18年4月の日本選手権。日本記録を計6回更新し、力強くこう宣言した。
「来年、再来年と絶対(タイムを)落とさないようにしたい」
以降も私は“東京五輪のヒロイン”を追い続けてきた。昨年1月からのオーストラリア合宿も訪ねた。だが取材を始めようとしたその日の早朝、「体調不良で急遽日本に戻ることになりました」と連絡を受ける。
〈「白血病」という診断が出ました〉
SNSに池江さんがそう記したのは、2月12日の午後2時。絶句するしかなかった。翌13日、池江さんからメッセージが届いた。
「必ず戻ってきます。待ってて下さい」
「いいなぁ、歌う人って」
それから1年弱――。
12月17日に退院を発表した池江さんが、密着取材に応じてくれることになった。ただ、私の中で課したルールがある。「絶対にテーマを押し付けたりはしない」。プールに戻るも戻らないも彼女の判断。ありのままの姿、言葉から「番組の方向性」を見つけたいと考えていた。
取材開始は今年1月10日。心身への負担を考え、最初は私が1人でカメラを持った。玄関先で迎えてくれた池江さんは「めっちゃ元気です」。密着を受けた理由をこう語った。
「今の気持ちとか、この瞬間しか分からないから、記録として撮っておくのはいいかもしれないです」
退院を発表した時、池江さんは直筆の文書でこう記している。
〈24年のパリ五輪出場、メダル獲得という目標で頑張っていきたい〉
主に火曜と金曜、週2回のトレーニングを自宅で始めた。だが身長171センチ、57キロだった体重は10キロ以上落ちていた。
居間の天井には、幼児教室を開く母・美由紀さんが「脳の発達を促す」と設置した雲梯。この雲梯で懸垂を試みたものの、「あかん、まだできないわ」。10キロの重りを腰に巻いてやっていた懸垂が、1度もできない。雲梯を掴む腕は以前とは違って、白く、細くなっていた。
――今、体はどんな感覚?
「細くなったという感じと、筋力落ちたという感じ、泳げるか不安です」
まだプールへ戻ることについて、期待よりも不安が勝っていたのだ。
トレーニング後のマッサージ中に池江さんがこう切り出した。
「『白日』知ってます? King Gnuの」
flumpoolが大好きな池江さん。King Gnuが出てきたのは意外だったが、スマホを操作し、スピーカーから曲を流し始める。
「ここからの歌詞が素晴らしい」
♪戻れないよ、昔のようには 煌めいて見えたとしても
彼女が口ずさみ始めたのは、テンポが変わるサビの部分。
♪真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようが
「本当にその通りだなって」
『白日』(作詞・作曲 常田大希)
私は思わず「重いね」と答えた。
「重い(笑)。過去の栄光には戻れないから、前向くしかないなってめっちゃ思わせてくれる歌詞」
その泳ぎで多くの人を感動させてきたが、今はこう漏らすのだった。
「いいなぁ、歌う人って。歌詞で人を感動させられるから」
池江さんは闘病中に影響を受けた映画についても、語り始めた。
「クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』見た人? めっちゃ良くなかったですか? 私、DVDも買いました。この前WOWOWでやってたので、それも見たんです」
クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記映画。フレディは87年にHIV感染が発覚し、91年、45歳でこの世を去った。
――見ましたよ。良かった。でもクイーンなんて知らなかったでしょ。
「知らなかったです。ずっと一生懸命やってきたのに、病気で亡くなるなんてすごく辛いだろうなって。他の人には何も言わないで過ごしていた。すごく強いなって。バンドの仲間に、エイズを打ち明ける場面で泣きました。ライブしている途中でも泣いた。本当にかっこよすぎて」
白血病は決して治らない病気ではない。それでも先の見えない闘病生活の中、早逝したフレディの人生に自身を重ね合わせていたのだろう。
「病気でホッとした」
池江さんは病気の発覚前から体調に異変を感じていたという。18年12月、米国での高地合宿、さらに帰国後の練習でも疲労が抜けきらない気怠さがあった。「おかしい」と感じながらも、オーストラリア合宿へ向かう。そこでも倦怠感は治まらず、頭痛が続く。2月になって現地で検査を受けたところ、「精密検査を受けた方がいい」と言われ、帰国。急性リンパ性白血病と診断された。
告知の瞬間、何を想ったのか。今年1月下旬、最初のロングインタビューで依ねた。
「白血病に関してはよく分からなかったですけど、そのあと先生と治療として抗がん剤をやりますという話になって、それも、ああそうなんだって感じだったですけど、そのあとに『髪の毛が抜けます』っていうことを言われた時に、それが1番ショックで、初めて泣きましたね」
その後、思わぬ言葉を口にする。
「自分の調子が悪いとしか思っていなかったので、病気が発覚してホッとしたというか。調子悪いまま行っていたら日本選手権も世界選手権もどうなっていたか分からないし」
そういう理解なのか、と驚かずにいられなかった。ただ、この「ホッとした」は本心なのか。少し間を置いて、別の角度から聞いてみた。
――でも、「なんで今、私が?」とは思わなかった?
「確かに少しあったけど、でも、ホッとしたほうが勝ってた」
そして、池江さんはこう続けた。
「言い方を悪くすれば、オリンピックに出られなくて良かったっていう、自分が。メダルを取るっていうプレッシャーがのしかかった状況の中で、逆に自分自身にプレッシャーをかけていたんですよ。そのプレッシャーから解放されたっていうか。背負っていたんでしょうね、こんな風に思うってことは。だって、絶対、アスリートとして良くないことを言っていますもん、今。オリンピックに出なくて良かったなんて、普通、誰も言えないじゃないですか」
彼女にしか言えない言葉だった。
闘病生活を支えた女性の存在
しかし入院生活は当然、「良かった」どころか、大変過酷なものだった。抗がん剤の副作用で髪が抜けていく。高校の卒業式には出席できず、病室で1人写真を撮ってもらった。
昨年7月4日、19歳の誕生日。ビデオに池江さんの様子が記録されている。マネージャーの「ハッピーバースデーです」の声に、寝たきりのまま、はにかんだ表情を見せた池江さん。「今日は具合悪いです」と一言応じるのが精いっぱいだった。
スポーツニュースを見て、「なんで自分はこうなれないんだろう」と思うこともあったという。
「今の自分には人を勇気づけることとか、感動させることってできないし、何もない、泳いでいなければ何もない人間なのかなって……」
症状は一進一退を繰り返したものの、9月には造血幹細胞移植を受けた。だがその後、40度を超える発熱と激しい頭痛に悩まされる。
「多い時は5回以上もどしたりしたし、1日で。頭痛はマックスを10だとしたら(それをも上回る)15くらい痛かった。こんなに苦しいのなら死んだほうがいいんじゃないかって思った時もありました。でもそれは違うんだって思ったし、逆にそれを思った自分にめっちゃ反省している」
「死んだほうがいい」と考えるまで追い込まれた闘病生活。支えになったのは、同世代の女性の存在だ。吉田麻里さん(21)。再生不良性貧血という難病を患い、同時期に移植を受けていた。吉田さんが語る。
「夜こっそり抜け出して、病室から。真っ暗いリハビリ室で、運動しないのに2人で話してました。で、2人して泣いて終わる。これからのこととか病気のこととか考えると、こみあげてくるものがあったのかなって」
池江さんはこう振り返った。
「初めて家族や周りの人と共有できない自分の辛さを共有できて、すごく心が楽になったというか、自分1人じゃなかったっていう気持ちになって、すごく支えられました。自分がまたちょっと変われたというか、良い方に、プラスに考えられるようになったって感じです」
大学の補講にショッピング
白血病は寛解したものの、再発を防ぐため、退院後も免疫抑制剤など1日20錠の薬を服用していた。トレーニングに励んでいたが、体調はなかなか上向かない。原因不明の腹痛に襲われるなどトレーニングの中断もしばしばで、医師からプールに入ることはまだ止められていた。
ジムでのトレーニング
そこで、泳ぐこと以外の時間を楽しんでみることにした。入学はしたものの、通えていなかった大学。体調を見ながら進んで補講も受けた。
――何の課題なんですか?
「経済学。アスリートなのに、経済を勉強しています」
後期12コマ分のスライドを見ながら、レポートを作成していた。
「疲れたー。終わった、オッケー」
久しぶりのショッピング。馴染みのファッション店に向かうと、
「これ、かわいい」
と、さっそくパーカーを手に取る池江さん。ワンピースやスプリングコートを幾つも試着する。
「足が細くなって、似合う服が増えたんです。それがちょっと嬉しい」
時には自身の恋愛観を語るなど、19歳らしい生活を満喫しているようにも見えた。
――これだけ水に入らない生活は?
「初めてです」
――そういう生活ってどうですか?
「一言でいえば、暇(笑)。今は家で映画を見るか、トレーニングするか、友達とちょっと遊ぶくらいしかないので。水泳が全く外れちゃっている。ちょっと物足りないというか、自分の生活の中に。引退したらどうするんだって話なんですけど(笑)」
――引退なんてまだまだ先でしょ。
「10年ぐらい先かな」
水中出産で世に生を受けた池江さんが、姉と兄の影響で水泳を始めたのが3歳の時。5歳で4つの泳ぎ全てを習得するほど、のめりこんでいく。泳ぐことが「日常」だった。
「例えば、これは食べちゃダメです、と言われたら、こっそりとでも食べられるじゃないですか。でも、水泳ができなくなりましたと言われたら、もう泳いじゃダメは、結構重い」
次第に「泳ぎへの渇望」が垣間見えるようになってきた。
「番組の方向性」が見えた
今回の密着で私が最も印象に残っているのは、2月上旬、2週間に1回の検査に向かう車中で、池江さんがふと漏らした言葉だった。
曇り空のこの日、病院へ向かう道がいつになく渋滞していた。
「渋滞すら幸せに感じる。外に出られたことが本当に嬉しくて――」
そう口にした池江さん。
「1人でトイレに行けなかった時もあった。だから、1人でトイレに行けることになった時も感動した。人間って当たり前のことを当たり前にやるけど、それが当たり前じゃなくなった時に、(再び)それができるようになった時にすごい幸せを感じるんだなって思って。自分も治療がうまくいかなくてまだ入院してるかもしれないし、1人で歩けなかったかもしれないし、走れなかったかもしれないと思うと、奇跡でもあるんじゃないかと思います」
当たり前だと思っていたことがいかに幸せか。泳げなくなっても池江さんは大切なものを掴んでいる。この言葉で、私は「番組の方向性」が見えてきたように感じた。
話の最後に、彼女はこう笑った。
「でも、今は渋滞がすごく嫌(笑)」
「当たり前が幸せ」©NHK
――体調が上向いてきている証拠だ。
「欲がちゃんと出てきました」
検査結果にも淡い期待を抱いていた池江さん。どうだったのか。
「先延ばしになりました。まぁゆっくり行きましょう。まだ」
2月8日、トレーニングは新たな段階を迎えた。退院後初めて、マシンでより強い負荷をかけることにしたのだ。一歩前に進めたことも嬉しかったのだろう。急に「あ、聞いて下さい」と切り出した。
「大事な話、しますよ。今日でちょうど1年。発覚して。あと6、7時間後くらいに結果が出る」
佐々木秀男トレーナーが「記念すべき日ですね」と声をかけると、
「記念日だ。2月8日は私の人生の記念日ということにしましょう」
夢を絶たれた日が、人生の記念日に。過酷な体験さえも、前へと進む力に変えようとしていた。
「3カ月後はきっと泳いでますよ、もう。そのつもりです」
3月に入ると、周囲も驚く回復を見せる。1回もできなかった懸垂。「緊張する」と言いながら、挑戦してみたところ、4回もできた。二の腕を見せ、「ほら見て、こぶ。ついにこぶが出来た」と喜んだ。
プールに入れなくても泳ぐことには関わっていたい。池江さんは東京五輪を目指す選手のマネージャー役も買って出た。かつて練習していたプールには仲間の姿。彼女の覚束ないストップウオッチ操作に、コーチが「マネージャーとしては全く使えない(笑)」と突っ込みを入れる。
でも、池江さんは本当に楽しそうだ。実は彼女が特に好きな種目はリレー。ワイワイやりながら泳ぐのが大好きなのだ。ホワイトボードに〈頑張ってね りか子〉とメッセージを残し、15分でプールサイドを後にした。思えば「水泳を楽しむという『原点』を取り戻したい」と口にし始めたのも、この頃だった。
「忘れません、この日を」
3月中旬、2週間に1度の検査から戻ってきた池江さんに訊ねた。
――どうでしたか?
右手でOKサイン。
「ということは、ついにプールに入れます。本当良かったぁ」
免疫力などに一定の回復が見られたと診断されたという。
「水泳やり始めたら始めたで、当たり前になるんだろうなって思います。でも、泳げなかった時期のことは絶対に忘れないと思う。泳げることって幸せなんだなと。泳ぎたくても泳げない子、同じ病気だったり水泳ができない子もいるって絶対思うから」
その「当たり前」だった場所に、ようやく戻ったのだった。
冒頭に記した406日ぶりのプールから数日後。2回目のプールでの練習では、池江さんに早くもアスリートとしてのスイッチが入った。
「ちょっとタイム計ってて下さい」
バタ足で25メートル。泳ぎ終わり、「はぁ、きつい」と漏らす。
――19秒41だって。
「いや、でもバタ足15秒だったんですよ、前。これはもう記録しておいて下さい、19秒41」
17年冬、池江さんがこう話していたのを思い出す。「水泳は人生そのもの。その中でタイムを競うのが競泳。タイムはそれくらい大事なんです」。その大事なタイムを改めて出せたことの喜びを、こう語った。
「今までには感じたことのない気持ち。忘れません、この日を」
ウイッグを外して
3月24日、新型コロナウイルスの感染拡大で東京五輪の延期が決まった。奪われていく「日常」。翌25日、池江さんはこう語った。
「目の前にある大きな目標を失った感じはめちゃめちゃ分かるので。当たり前のことが非日常になっちゃう。ある日、突然。モチベーション的にも選手は辛いと思います」
そして、ボソッと呟いた。
「っていうのを、いま他人事みたいに喋っちゃった」
彼女の目線は4年先を向いている。だが、この日の夜、東京都が外出自粛を要請。池江さんがプールに入ることは再び叶わなくなった。
感染拡大が続き、4月からはオンラインでの取材に切り替えた。
「病院を出て日常生活でこうなるとは思ってなかったので、残念っていうか、仕方がないんですけど」
それでも池江さんは今、「泳ぐこと」に新たな意味を見出している。
「また自分が試合とかで泳いで、テレビで活躍をするような姿を見せられたら、今度は自分と同じような経験をしている病気になった人たちに勇気を与えたい、確実に。堅苦しい意味ではないけど、使命感」
母・美由紀さんはかつてこう話していた。「璃花子は決めてかかるのではなく、まず体験してみてから考える子」。そういう彼女だからこそ、病気になって、何が大事なのか、考えた。その答えが「使命感」。とてもリアルな言葉だと、私は思った。
放送前最後のオンライン取材となった4月10日。彼女は宣言した。
「結果云々より、どん底まで行った人間がここまで上がってきたんだという成長を、ちょっとずつでもいいから見せていければ、それはそれでいいんじゃないかなって思います」
5月9日の夜7時半から放映した番組。終了から30分後の9時、池江さんからメッセージが届いた。
「素敵な番組で、感動しました」
――そのままのあなたを撮っただけなんだけどね(笑)。
「確かに(笑)」
ウィッグを外した姿(本人のSNSより)
5月18日、池江さんはSNSを更新。ウイッグを外した姿を初めて公開し、〈今のありのままの自分を見てもらいたい〉〈このメッセージが(略)誰かにとっても、小さな希望になればうれしいです〉と綴った。
池江さんはそんな「誰か」のためにも、「より長く泳ぎ続けたい」と語っている。誰も分からない未来に向かって、自分ができることを少しずつ積み重ねていく。その姿に勇気が湧いてくる。
(写真提供/NHK)
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