仁義なきヤクザ映画史⑤「権力との危険な関係――清水次郎長と黒駒勝蔵」伊藤彰彦
「ダレカワスレチャ イマセンカ」――。マキノ雅弘『次郎長三国志』9部作(1952~54)/文・伊藤彰彦(映画史家)
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「ヤクザのやらないことをやったから」
2020年、静岡市では「次郎長生誕200年記念事業」として、講談、クラシックコンサート、講演会が開催され、チラシには公共事業家として清水港の発展に寄与した清水次郎長の功績が大々的に謳われた。
次郎長(本名=山本長五郎)の生家は廻船問屋(数隻の船を持ち、塩や米や薪炭などを船に積んで売りさばく商売)。次男の彼は米問屋に養子にやられて若旦那になるが、商家の主に必要な読み書きや算盤はからっきしの苦手。日々喧嘩に明け暮れ、22歳のときに人相見の旅の僧から「25歳まで生きられまい」と予言され、「どうせ短い人生なら、豪遊しまくり、面白おかしく生きよう」と家を出て博奕打ちになった。
ジャズ評論家平岡正明によれば、次郎長がヤクザの世界で名を揚げたのは、「ヤクザのやらないことをやったから」だという(『清水次郎長の明治維新』)。
28歳で清水に落ち着いてからは、地元からはけっして子分を募らず、全国津々浦々から集まったはみだし者、殺人の前科者、凶状持ち、仇としてつけ狙われている男たちを従えてプロの戦闘集団「清水二十八人衆」を結成。血で血を洗う凄惨な喧嘩を繰り返した「ヤクザの天才」だったと平岡は書く。
そして、「ヤクザの天才」から「公共事業家」へと、後半生の次郎長は見事に転身を遂げる。幕末に勤王、佐幕両派から「力を貸してくれ」といくら頼まれても断り、維新後に元浜松藩家老の伏谷又左衛門に請われると一転して新政府に探索方として雇われ二足の草鞋を履いた。また、清水港で官軍に襲撃されて死亡した咸臨丸乗組員の遺体を官軍の咎めも恐れず収容して葬ったり、囚人を使って富士裾野の開墾にたずさわるなど、後世に語り継がれる美談を残した。さらには幕臣でありながら新政府のなかで高い地位を得た山岡鉄舟や榎本武揚と昵懇となり、1884(明治17)年の「博徒大刈込み」のときにはすでにヤクザから足を洗っていながら逮捕、収監されるが、鉄舟の人脈で早期に仮釈放された。晩年は汽船宿を経営して、客を相手に思い出話に花を咲かせ、1893年に74歳で大往生した。墓碑銘の「侠客次郎長之墓」は榎本武揚が書き、次郎長の生家や船宿はいまも観光スポットとなっている(片や寂寥感ばかりが漂う国定忠治の墓所とは対照的だ)。
清水港
三代目神田伯山の創作
幕末維新の名立たるヤクザのなかで、次郎長のみが「大侠」の途を歩み、畳の上で生涯を終えることができたのは、凡百のヤクザとは桁違いに処世術にすぐれ、新興商人の息子らしく勘定高く、世の趨勢を読む天賦の才があったからだ。
「次郎長もの」の小説や映画の作品数は『忠臣蔵』に次いで、宮本武蔵と2位を競う。
そもそもなぜこれほどまでにひとりのヤクザが、講談、浪曲、映画を通じて日本中に名を轟かせたのか――。著書に『現代語版 勤王侠客 黒駒勝蔵』、共著に『アウトロー 近世遊侠列伝』があり、甲州博徒の専門家である歴史学者の髙橋修(東京女子大学)はその理由をこう語る。
髙橋 それは次郎長が「宣伝能力」に優れていたからです。たとえば、次郎長の子分には「売講子清龍」という講談師がいました。有名な「荒神山」の戦いのときには、清龍を連絡係として同行させ、吉良仁吉が死ぬ様子などをつぶさに、清水にいた次郎長に報告させている。実際に博徒の戦闘に参加した清龍の講談は迫力満点で、しかも次郎長側に立って語ったことから、聴く人はみんな“清水びいき”になったことでしょう。
また、次郎長には実の子供がいなかったので、天田五郎(愚庵)という戊辰戦争を賊軍(幕府側)として闘った青年を養子にしていました。天田はのちに明治万葉調の歌の第一人者になって、正岡子規にも影響を与えるほどの教養人。その彼が、次郎長本人や子分たちから聞いた炉辺話をまとめて次郎長の半生記『東海遊侠伝』(1884年)を執筆するんですね。『水滸伝』を下敷きにした達意の戯作調で、次郎長の立場から東海地方の博徒間の抗争を詳細に記したこの本をもとに、“東海一の大侠客”像が形作られていったんです。そして、血腥い描写が多い『東海遊侠伝』を巧みに人情話に作り変えて、“八丁荒し”(周囲八丁にある寄席はみんな客を取られてしまうことから)の異名を取った講談師の三代目神田伯山が、次郎長像を愛されるキャラクターに創作します。
次郎長映画はなんと200本
三代目伯山は、タンカの切れ味と目の動きをヤクザとの付き合いから学び、実生活でも遊侠人そのものだったという。二代目神田松鯉が『張り扇裏表』で三代目の思い出をこう書いていたと足立巻一は『大衆芸術の伏流』で記す。
〈侠客伝が専門の伯山独演会は、ほとんどヤクザの主催でひらかれ、それだけに血なまぐさい出入りが多かった。ある真夏、伯山は向島の入喜亭という寄席で、荒神山の仁吉離縁の場を読んでいた。すると、けたたましい叫びがおこって、場内は乱れた。殺気をおびた声で「伯山、おるかッ!」――すっぱだかで日本刀のぬき身をつきつけている。小島貞次郎というテキヤの親分で、興行のもつれでなぐりこんだのだ。/しかし、伯山は講釈をつづけ、前席が終わって「やあ、小島さん、どうしたんだ」と、いきなり相手の手を握って笑った。……まるで、かれの講談そのままではないか〉
髙橋 そんなふうに、三代目伯山は芸の世界と実生活が地続きでした。三代目は反権力を貫き、金持ちや政治家のお座敷には決して出なかった。そうした反骨精神が江戸っ子に支持されたんです。三代目伯山に影響を受けたのが二代目広沢虎造。虎造が浪曲で次郎長伝を唸って、それが1925年に開始されたラジオ放送でまたたく間に日本中に広まり、虎造はスターに、次郎長は大衆のヒーローになっていきます。
戦後は、村上元三が小説『次郎長三国志』(52~54年)を、子母澤寛が『駿河遊侠伝』(62~63年)を書きます。宮本武蔵に『五輪書』があったように、次郎長に『東海遊侠伝』という底本があったからこそ、彼はメディアの寵児になった。
国定忠治は自らの磔刑の場面を見事に演出することで、忠治の名を芸能史に残したが、次郎長のメディア戦略は1枚も2枚も上手。生きているうちに講談や自伝で自らを「プロパガンダ」し、清水一家を「メディアミックス」で世に知らしめたのだ。ヤクザは正史に残らず、稗史や大衆芸能のなかに生きるしかないことを、ヤクザのなかのヤクザ、次郎長は熟知していたのだろう。
映画においても、国定忠治は、戦前に伊藤大輔や山中貞雄や伊丹万作らによって描かれ、言論統制下の大衆は忠治の反骨ぶりに自分たちの心情を託した。だが、戦後の映画では、忠治はしだいに脇役の存在でしかなくなる。たとえば、『任侠中仙道』(60年、松田定次監督)では、忠治(市川右太衛門)は脇役として主役の次郎長(片岡千恵蔵)に絡む。『座頭市 千両首』(64年、池広一夫監督)でも忠治(島田正吾)は客演扱いで、市(勝新太郎)の手引きで赤城山を降りるが、最後は処刑される。このように忠治は戦後、脇役に甘んじ、ヒーローの座をしだいに清水次郎長に明け渡してゆく。これはなぜなのか。その理由を、映画史家の冨士田元彦は『日本映画史の創出』でこう説明している。
〈次郎長ものは、清水港の米屋の倅に生まれた青年が、やくざの世界に身を投じて一家を成し、やがて東海一の大親分に成長していく話である。この方が、高度成長、経済大国の戦後日本にふさわしい。というわけで、昭和30年代、片岡千恵蔵や長谷川一夫が次郎長に扮したオールスター映画が、東映や大映でしきりに製作されたのであった。/忠次から次郎長へ、その主役の交代は、戦前と戦後の時代劇の質の変化を象徴しており(中略)それは少数派弱者の側から、多数派強者の側へ、製作者の論理、視点が移ったことでもある〉
加えて、大衆が芸能に求めるものとして、日本人の根底にある「判官びいき」(「九郎判官義経」を始めとする弱き者、敗れゆく者への同情)を基調とした、「破滅的ヒーローへの哀惜」もさることながら、次郎長のように晩年、「任侠として大尾をとげた」ヒーローへの憧れが強くあった。そうした庶民の心底を見抜いていた作家の吉川英治は、いくらすすめられてもけっして悲劇の英雄を書こうとしなかった、と『大衆芸術の伏流』で足立巻一は書く。
日本映画における次郎長ものの系譜は、永田哲朗の『血湧き肉躍る 任侠映画』に詳しい。次郎長ものは、『清水の次郎長』(12年、牧野省三監督、尾上松之助主演)から始まり、森の石松、吉良の仁吉、大政・小政といった子分が主役の映画もふくめて200本に及び、忠治ものの130本をはるかに凌駕する。
次郎長ものを好んだ監督がマキノ雅弘で、その代表作が東宝版『次郎長三国志』九部作(52~54年)である。広沢虎造の浪曲とともに、“マキノ節”と呼ばれる緩急自在な巧みな語り口で観客を魅了する、まぎれもない日本映画史上の傑作だ。一方で、「次郎長物は、アウトローが本来持つお上に盾つく反権力、反権威の毒性を失っていくことになる」(高橋敏「民衆文化とつくられたヒーローたち」展示図録)ということもまた、一面の真実だろう。
とはいえルポライターの竹中労は、国民的芸能となった広沢虎造の「清水次郎長伝」のなかにもまた、少数派の心情がうごめいていることを凝視していた。「石松代参」の回、清水一家で喧嘩の強い子分として自分の名前が挙がらないことに身を揉む森の石松が「大切なのを誰か忘れちゃいませんか?」と言うセリフを、窮民が自己疎外から回復されることへの欲求として見る視点だ。
〈「ダレカワスレチャ イマセンカ」と七五調でフシをつけていう石松の抗議は、庶民大衆に強い共感でむかえられた。英雄の序列に組みこまれることのない差別は、すなわち千数百年の歴史の底辺に置き去りにされてきた、無名の民衆ひとりひとりの悲哀であり憤りであった〉(『美空ひばり―民衆の心をうたって二十年』)
無告の民の情動を芸能の原点として捉えてきた竹中ならではの見解だろう。
マキノ雅弘
「勤王侠客」は捨てられる
さて、次郎長映画を盛り上げるため、汚名を着せられ、悪役にされたのが甲州ヤクザ、黒駒勝蔵である。
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