出口治明の歴史解説! 「孫子」の兵法って、どんなことが書いてあるの?
歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年5月のテーマは、「戦争」です。
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※本連載は第27回です。最初から読む方はこちら。
【質問1】前回の講義で、ローマ帝国軍はロジスティクスに優れていたと解説されていました。日本史でも似たような事例はあるでしょうか?
ロジスティクス(兵站)とは、平たくいえば、武器などの軍需品や兵士たちの食料を供給・補給することですね。とくに遠征軍では、敵との戦い以上に軍隊の移動を支えるロジスティクスが重要な場面が少なくありません。
日本の歴史でロジスティクスを印象づけた人物といえば、豊臣秀吉(1537~1598)が浮かびます。いまだに奇跡とも称される「中国大返し」は、ロジスティクスが万全だったからこそ、実現できた行軍でした。
本能寺の変が起きた1582年6月2日、秀吉は備中高松(現在の岡山市)にいました。そこから約3万の軍勢を率いて山城国の山崎(現在の京都府乙訓郡)まで、約8日間で移動しています。全行程は200km以上あったと考えられています。
とくに備中高松城から当時の秀吉の根拠地だった姫路城までは、約92kmの道のり。それを2日ほどで踏破したようです。1日に40~50kmを移動した計算になります。
1週間にわたって約3万人が行軍するのですから、飲まず食わずというわけにはいきません。おそらく彼らの前方には、休息所を決めたり食事を手配したりといろいろ準備する先行隊がいたはずです。このロジスティクス担当者なしに中国大返しは考えられません。
あまりにもミラクルな大返しだったので「秀吉は明智光秀が謀反を起こすことを知ってたんやろ。もしかしたら本能寺の変を仕組んだ黒幕かもしれない」と考える人たちが昔からたくさんいました。しかし現在は「光秀単独説」でほぼ確定していることは、この連載の第6回で説明したとおりです。
秀吉がロジスティクスに長けていたのは、おそらく織田信長の薫陶を受けていたからでしょう。当時は主流だった農民徴兵の軍隊より、少数でもプロ兵士のほうが強い、と軍事イノベーションを起こしたのは信長です。兵站から見てもそれは正しく、大勢の兵を投入する短期決戦、少人数による長期戦など、信長の戦い方は縦横無尽。彼の戦争指導には兵站の視点がうかがえます。
「秀吉がそれほどロジスティクスを意識していたとすれば、中国の明を攻めるために海を渡って朝鮮に出兵したのは耄碌(もうろく)したからかな」と思われるかもしれません。しかし、秀吉はそれなりの勝算があって朝鮮半島に出兵したと僕は想像しています。とりあえず、北京に入るまでの兵站ぐらいは考えていたでしょう。九州に築いた名護屋城は兵站基地としては巨大すぎるくらいの規模でした。
当時の明が大国だから、秀吉軍に勝ち目がなかったとは言い切れません。中国の歴史を見れば一目瞭然ですが、漢民族以外の民族が攻め入り、時の王朝を滅ぼして自分の王朝を打ち立てることは日常茶飯事です。近い時期でいえば、1644年に明を征服し清王朝を打ち立てた満洲族が好例です。満洲軍は秀吉軍に比べて兵力が格段に強大だったわけではありませんでした。
当時の世界情勢や国力に照らし合わせて考えれば、秀吉のプランは「夢のまた夢」ではなかったということです。少なくとも、太平洋戦争の開戦時にGDPが3倍から5倍もあったアメリカに戦争を仕かけるより、勝ち目はあったのかもしれません。
もちろん、秀吉軍が海を渡って遠征に出かけるのと、陸つづきの満洲族が攻めていくのとでは、ハードルの高さがまるで違ったことでしょう。秀吉の持っていた明の情報も比較にならないほど不十分でした。その意味では、無理筋であったことに間違いは、ありません。
それよりも秀吉の出兵で問題なのは、戦争全体のグランドデザインがほとんどなかった点です。一発殴りに出かけたら、「勝ったらこうする」「負けたらこうする」と次の手を準備しておかなくてはなりません。「その後の展開はどこまで考えていたの?」と尋ねたくなるのは、本能寺で信長を討ったあとの明智光秀と同じですね。秀吉も光秀も、信長ほどにはきっちりグランドデザインを描けなかった武将ではないでしょうか。
【質問2】戦争の教科書といえば、『孫子』が有名ですね。ところで、この孫子の兵法って実戦に活かされ、役に立ったことはあるのでしょうか?
「ある」と言えばあるし、「ない」と言えばない。『孫子』に書かれている内容はもともとそういうものでしょう。
『孫子』は、紀元前5世紀半ばから紀元前4世紀半ばの中国で成立したとされています。著者は、春秋時代を代表する兵家の孫武(そん・ぶ)とする説と、その子孫である孫臏(そん・ぴん)とする説の2つがあります。どちらも尊称の「子」をつけて孫子と呼ばれてきました。1972年に山東省のお墓から『孫子』とは別の『孫臏兵法』が発見されたので、実際のところは定かではありません。
『孫子』で最も有名な一節といえば、〈彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず〉でしょう。「戦争するなら、敵のことをよく研究してからにせよ」という意味です。
あるいは、〈百戦百勝は善の善なる者に非ず〉もよく引用されます。「いつも勝つ奴が偉いわけやないで。戦わない奴のほうがむちゃくちゃ偉いで」という意味です。
〈兵は詭道(きどう)なり〉も聞いたことがあるでしょうか。「戦争は騙し合いだから、賢いほうが勝つで」という意味です。
つまり、『孫子』に書かれていることは、戦争するならよく考えろとか、敵についてよく調べろとか、リーダーが賢いほうが強いとか、戦わないのが一番やとか、そういう戦いの基本的な考え方や軍人の心構えがほとんどです。
世界の歴史を紐解けば、古代ローマ帝国やペルシャ帝国でも、戦争が強いリーダーはそのとおりに行動しています。戦争の原理原則は同じですから、『孫子』を読まなくても、賢いリーダーには孫子が述べたような決断や行動が見られます。上手くいった戦果を見れば、『孫子』に書かれているとおり、ということはいくらでもあるのです。『孫子』にかぎらず、一般論とはそういうものです。
『孫子』がよくできている点は、指揮官なら当然知っておくべきポイント、いざというときに忘れてはならないポイントがきちんと書いてあることです。そもそも我々が手にしている『孫子』は、三国時代の魏の曹操(155~220)が、編纂したものとされています。文武ともに傑出していた曹操が自身の戦いの経験などに照らし合わせて、必要だと思ったもののみを残して編集したと考えればよいでしょう。たから、エッセンスが分かりやすく、それもコンパクトにまとまっているので、現代人もビジネスの場に置き換えて利用できるのでしょう。
(連載第27回)
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■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。
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