出口治明の歴史解説! 東京がアジアのハブになれない理由は?
歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2019年11月のテーマは、マネー(お金)です。
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※本連載は第3回です。最初から読む方はこちら。
【質問1】香港とシンガポールがアジアの覇者になった理由は?
20世紀にアジアが発展するなかで、ハブ(中核都市)の地位をゲットできたからです。
世界を見渡すと、どの地域にもハブの役割を果たしてきた都市があります。ヨーロッパならロンドン、アメリカならニューヨークです。ヒト、モノ、カネ、情報などの集積地であり、地域内の流通拠点であり、金品センターであり、わかりやすくいえば地域の“玄関”に当たります。
連合王国(イギリス)の領土だった香港やシンガポールが、アジアで最もハブの条件を満たしていたということです。
ハブの条件はいくつかあります。その第一は、自然条件がいいこと。大規模な自然災害がほとんどなく、気候も1年を通して活動しやすい。ヒトやモノの流れがストップする時期がなく、おおむね快適ということです。
第二の条件は、治安がいいこと。紛争や暴動が起こることはなく、泥棒もあまりいない。駐在員を派遣しても、安心して暮らせる都市です。
第三は、ご飯がおいしいこと。人間はおいしいご飯を食べると幸せですから、「また、あそこでおいしいものを食べよか」と世界中からたくさんの人が集まってきます。しばらく暮らしてみたいという希望者も多いでしょう。
こう説明してくると、東京は、香港やシンガポールにおよそ負ける要素がありません。自然条件はよく、治安のよさは世界トップレベル、ご飯のおいしさは香港やシンガポールに比べればぶっちぎっています。しかし、まだ条件は残っています。最後の条件はビジネスのしやすさです。
東京がアジアのハブになれないのは、実はビジネスの条件で圧倒的に見劣りするからです。まず24時間稼働の国際空港がない。英語に堪能な人材が少ない。英語で会社設立等の手続きが完結しない。お手伝いさんやベビーシッターを雇いにくい。加えて、インターナショナルスクールも少ない。
教育レベルも大切な条件の1つです。たとえば、OECD(経済協力機構)が15歳を対象に実施してきたPISA調査の結果を見ると、科学的リテラシー、読解力、数学的リテラシーの3分野ともシンガポールに負け、読解力と数学的リテラシーでは香港にも負けています。
アジアに拠点を置こうとするグローバルな企業は、現地で優秀な人材を採用したいと考えます。「おいしいものが食べられる」と評判の東京が候補地に挙がったとしても、経営陣は「空港も不便だし英語でビジネスができないからやめとこ」となります。
交通アクセス、英語環境、教育などの東京が見劣りする条件は、どれも国の政策や方針にかかわること。実にもったいない話です。
最近は、東京の機能を分割して地方に移すというプランまで出ています。「疲弊した地方を活性化させるため」という理由です。しかし、そんな発想では、香港やシンガポールに勝つことはできません。グローバル競争の真っ只中にいるという意識が欠けているのは、鎖国的な発想がまだ残っているからではないでしょうか。
日本全体が豊かになるためには、東京が先ずアジアのハブとなるべきです。最近の香港の状況を見ていると治安という面で問題が生じているように見え、東京に風が吹いています。アジアのハブをめざして、東京にもっと投資する時期だと考えなくてはいけません。
【質問2】なぜ日本には東南アジアのような華僑経済が発展しなかったのでしょうか?
日本が「鎖国」という愚かな政策を採ったからです。
鎖国は二代将軍・徳川秀忠(1579~1632)の治世に始まり、幕府老中・阿部正弘が1854年に開国するまでつづきました。実に250年近くです。
一方、華僑の先祖が東南アジアへ大量に移住したのは、アヘン戦争(1840~1842)が終わった直後です。
大英帝国に敗れた清朝は、南京条約によってほぼ日本の鎖国にあたる「海禁政策」の大幅変更を余儀なくされ、人々の海外移住が自由になりました。当時の大英帝国は、中国との交易ルートを確保するため、シンガポールを整備している最中でした。ほかにも、マレー半島で錫鉱山を開発するなど、アジア各地で大量の労働力を必要としていたのです。
中国には大量の人口資源がありました。その人たちが苦力(クーリー)として輸出されました。これが華僑のスタートになったのです。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ペルーなどにも華僑はいます。初めは低賃金で過酷な労働を強いられたものの、持ち前のネットワーク力で華僑経済を発展させていったのです。
もし日本に鎖国がなかったらどうなっていたか。いまごろは大量の日本人が世界各地にいてネットワーク力を発揮していたかもしれません。
日本人は本来、なかなかのコスモポリタンです。グローバルに活躍するのが大好きなことは歴史を見ればわかります。
たとえば、鎖国が始まった1612年に、貿易船でタイに渡った山田長政(1590~1630)です。彼は日本ではほぼ無名の人だったようですが、首都アユタヤで日本人町の頭領となり、国王を助けました。日本人町の頭領は、相当に幅を利かせていたようです。高い官位をもち、政治的にも発言力があった。それだけ日本人が現地で活躍していたということです。ほかにもフィリピン、ベトナム、カンボジアなどアジアの至るところに日本人町がありました。
鎖国がなければ、どれだけ多くの日本人が海を越えて雄飛していったかと思うと、残念でなりません。明治・大正時代に梅屋庄吉(1869~1934)のようにアジア各地で活躍する日本人が出てくるのも、鎖国がなくなったからです。
鎖国といって思い浮かぶのは、中国の明(1368~1644)の初代皇帝となった朱元璋(1328~1398)です。洪武帝ともいわれます。
彼は貧農の出身で商人と文化人を憎み、権力を握ると建国の功臣や文化人を皆殺しにしました。貧しい頃にお坊さんだったことがあるので、部下が「僧」などという文字を書いただけで「俺が坊主だったことへの当てこすりか」と殺し、宦官に字を見せて、読んだら殺すといった具合です。字が読めれば命令を改ざんするのではないかと恐れたのです。
この朱元璋が海禁令(1371)を出し、海に出ることを禁じたのです。これは民間貿易の禁止を意味しました。
中国には、お茶や絹といった“世界商品”がありました。世界中のみんなが欲しがるもの、現在でいえば石油と考えればいいでしょう。
新宿の伊勢丹が急にシャッターを下ろして「もう売りません」と貼り紙をするようなものです。お客さんは怒ります。シャッターをバンバン叩いて「店を開けろ!」と暴れだすでしょう。
明は北のモンゴル、南の倭寇(後期)から脅かされるようになりました。北虜南倭(ほくりょなんわ)です。このことで国内の統治もほころびが出はじめました。倭寇というのは海賊ではなく、自由な交易を求めた中国人、朝鮮人、日本人の海商、海氏が集まったいわば海の共和国です。
そういう愚かな政策を真似たのが徳川幕府の鎖国でした。その頃の日本には、かつての金銀のような世界商品はもうなかったので、北虜南倭は日本にはおこらず幕末まで外国に放っておかれたのです。
現代に生きる私たちも、鎖国的な発想は、自ら戒めなくてはいけませんね。
(連載第3回)
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出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
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