保阪正康 日本の地下水脈17 「五箇条の御誓文と日本型民主主義」
昭和天皇が引用した御誓文の中には日本固有のデモクラシーの原型がある。/文・保阪正康(昭和史研究家)、構成:栗原俊雄(毎日新聞記者)
保阪氏
日本型デモクラシーとは何か?
「日本の民主主義の危機」を訴えて登場した岸田文雄政権が、総選挙を経て本格的に動き始めた。この約10年間、安倍晋三・菅義偉両政権の独善的な政権運営が、社会の分断をもたらした面があることは否めない。
だが、そもそも「日本の民主主義」とは何なのか?――この点は、岸田首相の呼びかけからは全く見えてこない。
戦後、占領期に学んだ米国型デモクラシーを、日本人は「戦後民主主義」と呼んできた。米国型デモクラシーの本質は、自由競争にある。勝者は徹底的に勝ち、敗者は徹底的に負ける。弱者救済のセーフティーネットは政府がシステムとして張るのではなく、勝者である富裕層が慈善家として受け持ってきた。しかし、その歪みが現在の米国を蝕み、持てる者と持たざる者の階層が分断している。市場原理にすべてを任せ、政府は極力介入しない新自由主義的なシステムが瓦解しているのだ。
今こそ、米国型デモクラシーだけが民主主義と思ってきた日本人が、発想を入れ替える好機である。
では日本型デモクラシーとは何か? それを考える糸口として、「五箇条の御誓文」に注目してみたい。
敗戦から5カ月後の昭和21(1946)年1月1日、官報の号外が出され、昭和天皇による「新日本建設に関する詔書」が掲載された。その冒頭には、明治維新の直後に出された「五箇条の御誓文」が引用されている。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
そして昭和天皇は、これを新日本建設の趣旨とすべきであると述べる。
「叡旨公明正大、また何をか加へん。朕はここに誓いを新たにして、国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上をはかり、新日本を建設すべし(以下略)」
維新から78年後、なぜ五箇条の御誓文が突如“復活”したのか? そこにはどのような地下水脈が流れていたのか?――今回はそれを検証してゆきたい。
昭和天皇
聖徳太子「十七条憲法」の思想
「五箇条の御誓文」は明治元(1868)年3月14日、明治天皇が天地神明に誓約する形で示した、新政府の基本方針である。福井藩出身の由利公正が叩き台を作り、土佐藩出身の福岡孝弟、長州藩出身の木戸孝允らが加筆修正したうえで、岩倉具視に提出された。
背景には、開国による欧米列強からの文化、思想の流入があった。薩長が中心となって幕府の鎖国体制を倒し、さてこれから新しい日本をどう建設してゆくかという時、当時は日本の為政者の間でも目指すべき国家像が固まっていなかった。日本の国家指導者には、このままでは西欧の文化や思想に吞み込まれてしまうとの恐怖があった。そこで「わが国にも伝統的な思想がある」と内外に宣言するための理論的支柱として、五箇条の御誓文が出されたのである。
では、五箇条の御誓文に記されている思想のルーツはどこにあるのか。私は聖徳太子が推古天皇12(604)年に制定した「十七条憲法」が踏み台になったと考える。
たとえば御誓文の第一条「万機公論に決すべし」という考え方は、十七条憲法の第一条「以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。」に通じるものがある。
「和を以て貴しとなし……」の導入部でよく知られるが、「和を尊重して争わないようにすること。人は考えが異なることもあるが、物事をしっかりと議論すれば道理に適うようになり、何事も成し遂げられる」との教えである。
幕府との長い政争、さらには尊王攘夷派との武力闘争による混乱から誕生した新政府にとって、「争わない」「議論で物事を解決する」という方針はきわめて意味があった。いわば国家としての背骨となる理念を形成するため、そのモデルを日本の伝統に根付く思想の中から探すうちに、日本初の成文法である十七条憲法に行き着いたものと思われる。
五箇条の御誓文は、日本型の民主主義のあり方を示した理念として、優れたものであった。それから10年を経ずして、個人の自由を希求する自由民権運動が勃興する。中江兆民や板垣退助らによる自由民権運動は、ルソーをはじめとするフランスの共和思想の影響を受けたことがよく知られているが、五箇条の御誓文の理想も流れ込んでいると指摘することもできる。また、大正デモクラシー、普通選挙運動などにも、五箇条の御誓文の理念をみることができる。
こうしてみると、五箇条の御誓文そのものが、近代史の中で地下水脈化していたと言っていい。
御誓文の衰退、軍人勅諭の台頭
ところが時代が下るにつれ、五箇条の御誓文の影は薄くなってゆく。そのきっかけとなったのは、明治15年に下された「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」(軍人勅諭)である。
陸軍卿の山縣有朋が軍を天皇直属のものとすることを徹底させるために作った訓戒であるが、この冒頭では「古事記」「日本書紀」を用いて神武天皇による建国を持ち出し、天皇は優れた武人であると印象づけている。そこには自らの命を捧げる存在としての天皇を極端なまでに神格化した内容があった。
軍人勅諭という教典の登場により、天皇と国民の間に軍部が介在し、神格化された天皇像を一方的に国民に押しつける構図が生まれた。軍部は軍人勅諭という教典を国民に押しつけることで、本来の天皇と国民の回路をふさぐ形となったのだ。その目的は、「統帥権」の独立を盾に、軍部が政治への介入や戦争そのものを独善的に行うことにあった。
さらに明治23年10月には「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発せられた。国民を「臣民」と教育するための訓戒としての意味が込められた。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と、個人の天皇制への徹底的奉仕、献身を命じ、敗戦まで55年間日本人の道徳を支配した。昭和10年代の戦前の小学校、中学校では学校の行事の時に必ず式場で校長によって奉読されてきた。児童生徒は直立不動で校長の奉読を聞いた。小学校中学年になると、修身の教科書の最初は教育勅語であった。生徒は全文を暗唱させられ、帳面に書き取りをするよう命じられた。
特筆すべきは、大日本帝国憲法公布(明治23年11月)よりも先に、軍人勅諭と教育勅語が発表されていることである。国家の根本原理よりも前に、軍が天皇と国民の間に入り、子供たちを臣民として教育するシステムが出来上がった。
自由民権運動の系譜は、のちに社会主義運動や吉野作造の民本主義などに受け継がれてゆく。これらの思想の中には、五箇条の御誓文の地下水脈が交錯していたと考えられる。だが、軍人勅諭と教育勅語によって、この流れは徹底的に抑圧されるとみるべきである。
反軍部の闘士が掲げた御誓文
明治末期から昭和初期にかけて、軍部による言論弾圧と自由への抑圧が強まる中、反権力・反軍部の主張を果敢に掲げ続けた桐生悠々というジャーナリストがいた。
明治6(1873)年に金沢の下級藩士の家に生まれた桐生は、旧制四高を経て帝国大学に進学。大阪毎日新聞、大阪朝日新聞などを転々としたのち、信濃毎日新聞の主筆に就任した。桐生は軍部の横暴を鋭く批判し続け、明治天皇を追って殉死した乃木希典陸軍大将を批判する社説も執筆した。一方で、共産主義や自分が身を置く新聞業界そのものにも舌鋒鋭く斬り込むなど、その批判精神はあらゆる対象に向けられた。
桐生の慧眼を示すエピソードがある。昭和8(1933)年8月、関東一帯で「第一回関東地方防空大演習」が開催された。桐生はこれを批判する論説「関東防空大演習を嗤ふ」を発表した。桐生は、もし空襲があったら木造住宅はひとたまりもなく、甚大な被害があるであろうことを的確に予測。「敵機を関東の空に、帝都の空に、迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」とし、このような演習そのものに意味がないと看破したのである。桐生の見通しは、約11年後の東京大空襲で証明されるのだが、この論説は軍関係者の怒りを買い、在郷軍人らによる不買運動がおきた。
桐生は信濃毎日新聞を辞めて名古屋に移り、『他山の石』という個人誌を刊行し、徹底的な軍部批判を続ける。そして「こんな畜生どもがのさばる世界で生きていないほうが幸せだ」「軍閥が倒れることを見ずして死ぬのは残念だ」といった言葉を残し、開戦直前の昭和16年9月に亡くなった。
そんな気骨のジャーナリストの根底にあったのは、社会主義や共産主義ではなく、五箇条の御誓文だった。『他山の石』の表紙の裏面に、毎号必ず五箇条の御誓文を掲げた。桐生は、日本型民主主義の基本的理念が五箇条の御誓文に込められていることを理解していた。そして、軍部がこの精神を踏みにじり、日本を破滅に導こうとしている構図を見抜いていたのである。
さらに台湾総督府民政長官や内務大臣を務めた後藤新平も、五箇条の御誓文を「政治の倫理性の模範」として激賞した。
桐生悠々
昭和天皇の詔書で復活
抑圧されていた五箇条の御誓文の地下水脈は、なぜ敗戦後に社会の表層に噴出したのだろうか。
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