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タコに連れられて、粟島へ――内田洋子
文・内田洋子(ジャーナリスト)
ミラノで高校生達が夕飯を食べにくることになった。イタリアにも浸透した日本食ブームで、天むすやラーメンくらいではもう誰も驚かない。ならば、とタコ焼きを作った。「これは、海なのか山なのか!?」と、皆は喜んで熱々をいくつも頬張った。関西出身者は、たいがい家にタコ焼き用プレートを備えている。神戸生まれの私もご多分に漏れず、イタリアへも携えて移住した。イタリアもタコを食べる国なので、プレートを提げて半島を回ると、期せずして各地のタコの味比べをすることになる。海沿いでは釣れたてを、山奥や町中では冷凍庫からタコを買う。
「冷凍にしたあと、そのまま水から茹でるといいよ」豊かなタコの水揚げ量を誇る南イタリアの漁師から教わった。「茹でるときにコルク栓を放り込め」と、サルデーニャ島の船乗りは言った。どちらも柔らかく茹で上げるコツなのだった。それでもやはり、幼い頃に食べた瀬戸内の明石のタコの、舌に吸い付くような食感には敵わない。イタリアのタコを口にして、故郷の海を懐かしむ。
日本に戻るなり、瀬戸内海へ行った。内海に浮かぶ700余りの島々のひとつ、香川県の粟島へ渡った。その島を選んだのは、日本で最初の海員学校があったと聞いたからである。1897年に創立され1987年に廃校になるまで、粟島海員学校は日本の海運業を支えた。倹(つま)しい島の男児の大半は船員となって、日本の主要な産業貨物を積載した大型船で世界の海を回った。いったん外洋航路に乗ると、半年は帰れない。男達を遠洋へ送り出すと、女達が島の暮らしを采配した。中世、海運業で栄えたヴェネツィア共和国もそうだった。
船を乗り継ぎようやく着いた島は、海に突き出た森のように見えた。連絡船が出ていった後は、さざ波も立たない。木々は波打ち際からすぐ小山を成して連なり、空の裾を凹凸に縁取っている。道端に、素焼きのタコ壺が無造作に干し並べてある。家屋はどれも黒々としている。
「潮にやられんよう、タールを塗り込んであるんよ」
菜園の手入れをしながら、若くはない女性がよく通る声で教えてくれる。陸に引き上げたゴンドラ、か。
一本道を伝って数分で、小さな湾に出た。宿屋がぽつんと1軒、小山を背負い湾を抱くようにして建っている。景色に惚(ほう)けているうちに、日が落ち始めた。防波堤沿いに先ほどの女性が袋を提げて歩いてきて、
「天ぷらにして、おにぎりで夕飯にしよか」
袋の中に小ぶりのタコとカサゴが見えた。その日の朝、夫が釣ってきたのだという。
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