地方は消滅しない〈特別編〉洪水被災地ルポ 郡山の「人災」と福島の「奇跡」
地方自治ジャーナリストの葉上太郎さんが全国津々浦々を旅し、地元で力強く生きる人たちの姿をルポします。地方は決して消滅しない――。今回は特別編。10月に列島を襲った史上最大とも言われる台風の被災地を訪れました。現場はどうなっていたのか?渾身のレポートです。/文と写真・葉上太郎
福島を再び襲った水害。分かれた明暗の理由──
冷たい雨が降る。
10月22日、新天皇の「即位の礼」に伴う祝日。
しかし、福島県郡山市の中央工業団地では、かじかむ手に息を吹き掛けながら、浸水した事業所から廃棄物を運び出す作業が続いていた。
150社以上が進出している同工業団地は、台風19号による豪雨災害で全域が水没し、休んでいる暇はなかったのだ。
「市が工業団地内に『災害ゴミ』の置き場を開設しましたが、満杯になったら遠方に運ばなければなりません。運搬に時間を取られて、会社の復旧が遅れてしまう」
雨合羽を泥だらけにした男性は、そう答える時間も惜しそうにゴミ袋を軽トラックに積み込んでいた。
水害に遭った工場の復旧には時間がかかる。水が引いたら泥をかき出さなければならない。使えなくなった物を棄てる。それから機械が動くかどうかのチェックをする。部品交換で済むのか。買い換えなければならないのか。その場合はどうやって資金を調達するのか。事業再開までには長い道程がある。
積み上げた廃棄物の前で呆然としている人がいた。特注家具の製造販売「クラムジー・アロー」を経営する矢﨑正則さん(48)だ。ガランとした事務所で、「棄てようにも、まだ運ぶことができないんですよ」と弱く笑った。
会社にはワゴン車しかない。産廃業者に頼むことにしたが、費用がかかる。搬出の前に保険会社の調査員が見に来ると言っている。
つかの間の安心
台風19号が上陸する前日、矢﨑さんは保険会社に「水害に遭ったら全額出るのか」と電話で確認した。5年前に事務所と工場を借りた時、大家から「70センチメートル浸水したことがある」と聞き、総合型の災害保険に入っていたのだ。保険額は火災の場合に計2,000万円。保険会社の担当者には「45センチメートル以上の水害なら出ます」と言われて安心した。もし木工機械が浸かっても「何とかなる」と思った。
念のため、数10センチの氾濫では屋内に水が入らないよう、入口などに材木を張り付けて帰った。
だが、2メートルも浸水した。
それでも、保険が出るなら会社の再建は可能だと考えた。しかし、泥だらけで片づけをしていた時、保険会社の社員が「見舞い」に来て、「水害では100万円までしか出ません」と言った。規約書に小さく書いてあったというのだった。
矢﨑さんは目の前が真っ暗になった。「なぜ、電話した時に言ってくれなかったのか」と抗議したが、後の祭りだった。
100万円なら、ゴミ出しの費用と事務所の備品程度にしかならない。木工機械は、メーカーの技術者に「修理が難しい」と言われていた。なのに、買い換えさえできない。
「社員は5人しかいませんが、単なる家具屋ではありません。店舗の設計から内装まで行い、厨房設備など関連の約20社の仲間とチームで仕事をしています。そうした仲間や、工事を待っている顧客のためにも何とか再建しなければ」。矢﨑さんは無理矢理に前を向こうとしていた。
台風19号は10月12日夜から13日午前にかけて、伊豆半島に上陸して福島県まで縦断した。全国の死者・行方不明者は100人に近く、福島県内は31人と最も多い。郡山市では、阿武隈川の氾濫や支流の決壊などで、6人が亡くなった。
安倍首相も被災地入り ©共同通信
だが、郡山市の中央工業団地の水害は起こるべくして起きた。「浸かるような場所に企業誘致してはならないのに、市の稚拙な都市計画が招いた人災だ」と指摘されているのである。
福島県内には30万都市と呼ばれるまちが3つある。県都の福島市、交通の要衝の郡山市、そして太平洋岸のいわき市だ。このうち歴史的な変貌が最も激しかったのは郡山だろう。江戸時代には奥羽街道の一宿場町にすぎなかった。
「市にだまされた」
原野に近かった郡山が拓かれたのは、1882(明治15)年に安積疏水(あさかそすい)ができたからだ。猪苗代湖からの導水で農地化が進んだだけでなく、疏水を使った発電で企業が立地していった。阿武隈川は郡山を貫きはしていたが、低地から耕土への灌漑(かんがい)は難しかった。
第2次世界大戦時は、市が軍都を目指して海軍の飛行場を誘致した。阿武隈川と支流の谷田川に挟まれた「氾濫原に建設され……(中略)……郡山は活気のある街に発展した」(郡山市史)とされている。
戦後は再び工業都市を目指し、工場を建設した企業に奨励金を交付する条例を1952年に制定するなどした。そして64年、市が設立した開発公社が、海軍飛行場跡地で中央工業団地の造成を始めた。
団地はJR郡山駅から2〜3キロメートルと東京へのアクセスが良い。大企業が次々と工場を建てた。
だが、阿武隈川は暴れ川だった。福島県南部に源流を発して北上し、宮城県で太平洋に注ぐまでの239キロメートルで、氾濫を繰り返した歴史を持つ。
福島県で戦後最大の水害と言われてきたのは86年8月4日から5日にかけての「8・5水害」である。阿武隈川とその支流の多くで洪水が起き、中央工業団地は水没した。
進出企業からは批判の声が上がった。というのも、市は「過去50年間に特記すべき天災地変は皆無」(市発行パンフレット「工場適地 郡山」)というキャッチフレーズで企業誘致をしていたからだ。
当時の青木久市長は、被災企業との懇談会で「災害がないというので進出したのに、欠陥工業団地ではないかと指摘を受けた」と明かしている。「市にだまされた」と発言する企業もあった。団地内に工場を構えるパナソニック(当時は松下電器産業)の社長は、青木市長を訪ねて「再びこのような災害のないように恒久対策をくれぐれもお願いしたい」と強く要請した。
同社を始めとした進出企業は市の対策を待たず、敷地の周囲に防水壁を建設するなどして自衛策に乗り出した。
被災は一度では済まなかった。
「東北テック」は社員10人の小さな会社である。
川崎重工の系列会社として、87年に市内で創業した。事務所は別の場所にあったが、98年に中央工業団地へ移って来た。東北一円の清掃工場でボイラーの整備補修を請け負っており、手狭になったのだ。
だが、中央工業団地への移転から4カ月で水害に遭い、社屋は30センチメートル浸水した。
この時、政府は「平成の大改修」と称して、約800億円をかけて阿武隈川流域の災害補修と堤防増強などを行った。
ところが、2011年には70センチメートル浸水し、重要なデータが入ったパソコンや書類、社有車、社員の車が水没した。
そこで約500万円をかけて、高さ70センチメートルのアルミ製防水パネルを社屋に巡らせた。
「対策が甘かった」
梅谷(うめや)利夫社長(61)は「移転は先々代社長の時なので、市とどんな話があったのか知りません。社屋は盛り土もなく建てられました。浸水後も開発公社はなかなか対策を取らないので、せめて団地内で売れ残った土地に盛り土をして車が避難できるようにしたいと考えました。が、その土地には先に別の企業が進出を決め、仕方なく市内でも8・5水害で浸からなかった土地に、6,000万円をかけて倉庫まで整備しました。トラックは土地がなければ避難できませんから」と話す。
金庫は社屋の2階にも設け、重要な書類は日頃から2階に置くようにした。コピー機も不便だが階段の踊り場に置いた。
そして今回、重要な資材やパソコンは2階に上げた。車も移した。ただ、1階の書棚に上げただけのものもあった。他県への出張が迫っていたからだ。「浸水してもせいぜい前回程度と甘く考えていました」と梅谷社長は悔しがる。
果たして、阿武隈川が越流しただけでなく、支流の谷田川の堤防が中央工業団地の近くで決壊した。1階の天井すれすれまで浸水した。
「この団地では水害を嫌って転出する企業があるので、新たに社屋や工場を買い取って転入する企業が備えもなく被災します。そうした中には営業車を全て失った会社もあります」と梅谷社長は話す。
市のハザードマップで中央工業団地の浸水想定は2〜5メートルとされている。それでも工場を置かざるを得ない理由があるという。
「住宅に近いと騒音や臭いで苦情が出ます。市は他にも工業団地を造成していますが中小企業用はないのです」と梅谷社長は嘆く。
市は都市計画法で工場などしか建てられない工業専用地域も設定しているが、「今回浸水したのと同じような場所しかありません」。梅谷社長は大きなため息をついた。
原発避難企業や救急病院も
11年の東京電力福島第一原発(大熊町・双葉町)爆発事故で、郡山に避難してきた会社も被災した。双葉町の工業団地で操業していた「ネットアンドプリント」だ。
避難後、県に紹介されて、中央工業団地に仮事務所を設けた。これがきっかけとなり、本社と工場を建てた。32人の社員のうち4人は双葉町からの避難者だ。バラバラに逃げた後、3人の社員が郡山に駆けつけた。同じ双葉町の工業団地にあった別の会社の従業員も1人採用した。
木藤喜幸(きとうよしゆき)社長(54)は「浸水すると聞いていたので1メートルほど棟上げして建てましたが、10台の印刷機は全て浸かりました。避難後に頑張って事業を拡大したため、ダメージは今回の方が大きいかもしれません。もう移転はできないので、ここで再建します」と話す。
郡山市内では、中央工業団地以外でも、重要な施設が水没した。
救急指定病院の星総合病院(430床)が、10〜15センチメートル程度浸水したのである。
浸水した病院(郡山市)
床下にあった配線だけでなく、CT(コンピュータ断層撮影)やMRI(核磁気共鳴画像法)の機器が浸かってしまい、一時は救急の受け入れも満足にできなかった。
同病院は11年の東日本大震災で8階建ての病棟をつなぐ渡り廊下が崩落するなどし、13年にJR郡山駅の近くに移転新築したばかりだ。
「病院がなかった地区の医療充実を目指してゴルフ練習場だった土地に移りました。浸水想定区域だったので、1.5メートルの盛り土をして建設しましたが、想定を超えてしまいました」と広報担当者は話す。
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