『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹|佐藤優のベストセラーで読む日本の近現代史
悪は犠牲を払ってでも断ち切るしかない
新型コロナウイルス対策の過程で、国家機構とマスメディアの関係に潜む宿痾が顕在化した。
〈週刊文春は(5月)20日、東京高検の黒川弘務検事長(63)が新型コロナウイルスによる緊急事態宣言発令下の今月初め、東京都内の知人の新聞記者の自宅で、賭けマージャンをした疑いがあるとニュースサイト「文春オンライン」で報じた。/記事によると、マージャンには産経新聞社の記者2人と朝日新聞社の元記者の社員が参加。黒川氏は1日から2日未明にかけ、産経新聞社の記者の自宅で約6時間半にわたり滞在し、記者の用意したハイヤーに乗って帰宅した。東京都では緊急事態宣言を受け、都が外出自粛を呼びかけていた〉(「日本経済新聞」電子版5月20日)
週刊文春の報道に対して朝日新聞が迅速に反応した。
〈朝日新聞社広報部は20日、東京本社勤務の50代男性社員が黒川氏とのマージャンに参加していたと認め、金銭を賭けていたかどうかは調査中と説明した。そのうえで「勤務時間外の個人的行動ではありますが、不要不急の外出を控えるよう呼びかけられている状況下でもあり、極めて不適切な行為でお詫びします」とコメントした〉(前掲「日本経済新聞」)
当初ノーコメントだった産経新聞も井口文彦・東京本社編集局長の見解として〈本紙は、その取材過程で不適切な行為が伴うことは許されないと考えています。そうした行為があった場合には、取材源秘匿の原則を守りつつ、これまでも社内規定にのっとって適切に対処しており、今後もこの方針を徹底してまいります〉(「産経ニュース」5月20日)とのコメントを出した。
検察とメディアの共犯関係
情報源に深く食い込んで、人間的信頼関係を構築することは新聞記者の重要な仕事だ。その目的は、「国民の知る権利」に奉仕するためだ。ここで重要になるのは記者の倫理だ。検察官を含む官僚にとって、メディアは自らの業務を遂行する上で利用価値がある。官僚は記者と「外部に知られては困る」ような「共犯関係」を作り出すことで、メディアを操ろうとする。メディアとしても、このような「共犯関係」を官僚と作り出せば、情報が一層取りやすくなる。賭けマージャンは、官僚、記者の双方にとって魅力的な道具なのである。
官僚(国家公務員)が違法行為を行ってはいけないのは当然だ。記者も取材にあたって守らなくてはならない倫理基準がある。朝日新聞の社員は現在は記者ではないので、取材の必要でマージャンをしたという理屈も通らない。産経新聞も朝日新聞も組織防衛を始めている。両者の社内調査で、記者や社員が賭けマージャンを行っていたという事実が判明した。法務省の動きも速かった。
〈黒川氏が法務省の聞き取り調査に対し、賭けマージャンをしたことを認めたことが分かった〉(「朝日新聞デジタル」5月21日)
黒川氏は5月21日に辞意を表明し、翌22日の閣議で辞職が承認された。しかし、残された問題は極めて深刻だ。検察とメディアは構造的に癒着している。その結果、検察にとって都合が良い環境を醸成する役割をメディアが果たす。メディアも検察に協力することで特ダネを得る。その過程で疑惑の対象とされた人の人権が侵害され、国民の真実を知る権利が歪められる。黒川氏が辞職してもこの構造は変わらない。
日本の法制度では、被疑者を起訴するか否かの判断は、ほぼ検察官に握られている(起訴便宜主義)。検察官が起訴しない事案に関して、国民によって構成される検察審査会という制度がある。そこで起訴相当の議決が2度なされると強制的に起訴される。こうして検察官が起訴しなかった事案については、見直す制度がある。これに対して、検察官の起訴が正当であったかどうかを見直す制度はなく、裁判の結果を待つしかない。起訴されれば、99.4%が有罪になる。このような絶大な権力を持つ検察が暴走した場合、それを阻止する手立ては事実上存在しない。
この機会に検察官や新聞記者など日本社会のエリートに生じている歪みを村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』から学んでみたい。法律事務所の事務員を辞め、専業主夫となった主人公(岡田亨)は、妻クミコ(岡田久美子、旧姓・綿谷)と結婚して6年になり、円満な生活を送っているつもりだった。しかし、1984年のある日、クミコが失踪する。2年後にクミコから主人公にメールが届き、兄の綿谷ノボル(昇)を殺すと予告し、実行する。作品の中では女性占い師、ノモンハン事件やソ連で抑留生活を体験した男が登場し、重要な役割を果たす。虚と実が入り交じった構成だが不思議なリアリズムがある。この小説は、俗物の描き方がうまい。特に霞が関(官界)でよく見かける自分が世界で一番頭がいいと勘違いしている本質的な愚か者の内在的論理を見事に表現している。クミコの父は元運輸官僚で強いエリート意識を持っている。
日本社会のエリートの歪み
〈父親は日本という社会の中でまっとうな生活を送るためには少しでも優秀な成績を取って、一人でも多くの人間を押しのけていくしかないという信念の持ち主だった。本当に真剣にそう信じていたのだ。/結婚してまだ間もない頃に、僕は義父の口から直接その話を聞いたことがある。人間はそもそも平等なんかに作られてはいない、と彼は言った。(略)日本という国は構造的には民主国家ではあるけれど、同時にそれは熾烈な弱肉強食の階級社会であり、エリートにならなければ、この国で生きている意味などほとんど何もない。ただただひきうすの中でゆっくりとすりつぶされていくだけだ。だから人は一段でも上の梯子に上ろうとする。それはきわめて健全な欲望なのだ。人々がもしその欲望をなくしてしまったなら、この国は滅びるしかないだろう。(略)彼は未来永劫にわたって変わることのない自らの信念を吐露していただけなのだ。/(略)それは恐ろしいほどに浅薄で、一面的で傲慢な哲学だった。この社会を本当の根幹で支えている名もなき人々に対する視点を欠いていたし、人間の内面性や、人生の意義といったものに対する省察を欠いていた。想像力を欠き、懐疑というものを欠いていた。でもこの男は心の底から自分が正しいと信じているし、何物をもってしても、この男の信念を動かすことはできないのだ〉
息子の昇は、俗物哲学を体現した人間になった。ただし、自らの俗物性を隠す知恵も備えている。
〈両親は綿谷ノボルが誰かの背後に甘んじることを決して許さなかった。クラスやら学校といった狭い場所で一番を取れないような人間が、どうしてもっと広い世界で一番を取れるのだ、と父親は言った。両親はいつも最高の家庭教師をつけ、息子の尻を叩きつづけた。優秀な成績を取れば、彼らはその褒美として息子が望むものを何でも買って与えた。おかげで彼は物質的にはきわめて恵まれた少年時代を送った。しかし人生における最も多感で傷つきやすい時期に、彼にはガールフレンドを作る暇もなく、友だちと羽目を外して遊ぶ余裕もなかった〉
評者がかつて勤務していた外務省は受験競争の勝者によって構成されているが、評者が出遭った中には、国益のことは小指の先ほども考えていない尊大な人物が何人かいた。そういう人に限って、自分は愛国者だと思っているので、質が悪かった。もっとも、そうでない人もたくさんいた。善い人とそうでない人の比率は、社会のどこにおいても、だいたい同じだと評者は考えている。
綿谷ノボルは、衆議院議員に当選し、この男の邪悪な心が社会に悪影響を与えようとしている。悪の拡散を阻止しなくてはならない。主人公はバットでノボルを殴打した。それは夢でなく、現実であったがパラレル・ワールドで起きたことだった。この世界では、長崎で講演した後に脳溢血で倒れ、意識不明になった。ノボルの生命を絶ったのは妹のクミコだった。その意志をクミコはメールで主人公に告げた。
〈私はこれから彼の眠っている病室に行って、生命維持装置のプラグを抜いてくるつもりです。私は実の妹として、看護婦のかわりに夜のあいだ彼のそばに付き添うことができます。私がプラグを抜いても、しばらくは気づかれることはないでしょう。(略)私は兄が死ぬのを見届け、そのあとすぐに警察に出頭して自分が故意に兄を死なせたと告白するつもりです。それ以上くわしいことはなにも説明しません。私はただ自分が正しいと思ったことをやっただけだと彼らに言うでしょう。私はたぶんその場で殺人罪で逮捕されて、それから裁判にかけられることでしょう。マスコミが押し寄せて、いろんな人々がいろんなことを言うでしょう。尊厳死がどうのという話になるかもしれません。しかし私はなにも言わずただ口を閉ざしているでしょう。説明も弁護もしないつもりです。私はただ単純に綿谷ノボルという一人の人間の息の根を止めたかっただけなのです。それが唯一の真実です〉
悪は、その存在を自覚した人が、多大な犠牲を払ってでも断ち切らなくてはならないという村上春樹氏の信念が伝わってくる。
(2020年7月号掲載)