岩田明子 愛子天皇を認めていた 安倍晋三秘録③
約200年ぶりの生前退位
「一体どういうことだ! 宮内庁側から事前の連絡はなかったのに」
電話口の向こうで、安倍は驚きの声を上げた。2016年7月13日、午後7時5分前。NHKが一本の速報を打った。
「天皇陛下『生前退位』の意向示される」
「ニュース7」で社会部がスクープの詳細を解説すると、衝撃は瞬く間に広まった。天皇(現上皇)は82歳の高齢となり、今後、日本国憲法で定められた象徴としての務めを十全に果しえなくなるのではないかとのご懸念を抱かれていた。そのため、数年以内に皇太子への譲位を望まれている――想像していなかった事態に、官邸記者クラブにいた私も呆気に取られた。
驚き冷めやらぬ様子だった安倍も、すぐさま生前退位を行う上での問題点を悟り、その晩の電話でこう語っている。
「現行の憲法上、陛下のご意向だけでは退位は認められないはずだ。それを可能にすれば、政府の思惑で強制的に天皇を交代させる余地を生んでしまう。摂政の制度は法律上認められているが、天皇陛下は摂政の設置を望まれていないはずだ。皇室典範を改正して恒久法として生前退位を認めるのか、それとも一代限りの特例法とするのかも議論が分かれるところだろう。これは国体に関わる重大事だ。とても簡単にクリアできる案件ではないが、何とか政府の責任で成し遂げなければならない」
実は予兆がなかったわけではなかった。前年の2015年暮れに官房副長官の杉田和博は、宮内庁長官の風岡典之から、天皇が退位の意向をお持ちであることをそれとなく聞かされている。この時、杉田の脳裏にも憲法上の問題が浮かんでいた。
ただ、天皇の強いご意志は風岡の話しぶりからも充分に感じ取れた。「摂政では対応できない」との雰囲気も漂い、安倍の耳にもその報告は入っていた。それから半年以上が経ち、遂にその想いが表出したのが、NHKの報道だったのだ。
江戸時代以降、約200年ぶりの生前退位という歴史的な事態を前にして、安倍は政権を挙げての大規模改革に取り組むことになる。
恒久法か特例法か
16年9月、経団連名誉会長の今井敬や、政治学者の御厨貴らが名を連ねる有識者会議が立ち上がった。名目は「天皇の公務の負担軽減」だったが、もっぱら議論の中心は、生前退位を皇室典範の改正による「恒久法」で実現するか、それとも一代限りの「特例法」にするかにあった。
安倍もまたその点に頭を悩ませていた。有識者会議の初会合が開かれる約1か月前の9月21日、国連総会に出席するため訪問していたニューヨークのホテルのスイートルームで安倍は、首相秘書官の今井尚哉に相談を持ち掛けている。「例の件だが、一代限りの特例法にするべきだろうか」。すると今井はこんな考えを披露した。
「メディアもその点をクローズアップしていますが、『特例法にすれば一代限りになる』という考えは法制論として正しくないと思います。そもそも憲法第二条は皇位継承の根拠となる法として皇室典範を明記しています。皇室典範本体に何らかの規定を設ける必要があるでしょう。仮に特例法を制定しても、生前退位を今回だけに限定する歯止めにはならないのではないでしょうか。
むしろ特例規定を皇室典範本体に組み込み、頻繁に法改正しないようにすることが重要だと思います。つまり皇室典範の附則に、今回は特別であるとの個別事情を書き込み、それを特例法として制定することが望ましい対応だと考えます」
実際に有識者会議の議論もその方向で進んでいく。
翌2017年1月20日、安倍は総理公邸で野田佳彦元総理と秘密裏に意見交換している。この時のことを野田は安倍への追悼演説で振り返り「(生前退位について)国論を二分することのないよう、立法府の総意を作るべきだ」と意見が一致したと明かしている。一方の安倍もまた「保守政治家である自分でなければ、議論を進める上で保守層を説得できない」と考えていた。
ただ、安倍の前には、退位と即位の日取り、元号の改正など、さらなる難題が山積していた。
保守派議員との折衝
官邸は新元号の内容以上に日程の調整に腐心したと言える。
「天皇陛下は2019年4月1日即位をご希望されている」。そんな噂も実しやかに囁かれた。現に2017年10月には朝日新聞が「即位・新元号4月1日」と1面トップで報道。だが、これは誤報となった。政府は5月1日の案で動いていた。
というのも、4月1日は企業や省庁での人事異動も多く、新生活のための引っ越しで慌ただしい時期と重なる。またこの4月には、統一地方選挙も予定されていた。国民が落ち着いて、即位を寿ぐ環境が必要だった。
朝日の報道から約1か月後の12月1日に皇室会議が行われた。だが、安倍は私に「数日前の内奏で事実上、日程は決まった」と明かしていた。
安倍が天皇に「5月1日即位の案」を提示すると、天皇は大きく頷き、皇太子に加えて秋篠宮にも丁寧な説明をするよう求められたという。安倍は「天皇陛下と秋篠宮の信頼関係が垣間見えた」と話していた。続いて、三権の長や常陸宮ら皇族が臨席する皇室会議の様子についても、満足そうに振り返っていた。
「報道では私が『5月1日案』を呑ませるべく強引に迫ったなどと書かれていたが、私は司会役に徹したまでだ。採決を取らずに、一人一人に『よろしゅうございますか?』と確認して回っただけだったが、無事に了承を得ることができた」
即位日が2019年5月1日に決まると、伝統を重視する保守派の議員から声が上がった。新元号は天皇のもとで決定し、発表も即位日と同日にするよう主張したのだ。
例えば、衛藤晟一は「即位のまさにその瞬間、5月1日午前零時に公表するのが望ましい。事前発表は反対だ」と訴え、官邸の総理室を訪れ、安倍に直談判するほどだった。
だが、安倍は即位1か月前の「4月1日発表案」を模索していた。その背景には「IT社会」という現代特有の事情もあった。
民間企業が使うマイクロソフトのシステムは、毎月第2火曜日に全世界同時にアップデートをする。システム上の元号をすべて修正して、次のアップデート日に間に合わせるために最低1週間は必要だった。さらに日本は和暦と西暦が混ざっていて、元号修正のプログラミングにも時間を要することが予想される。「即位日と同時に公表」という選択肢は実質、不可能だった。
しかし安倍にとって保守派は支持基盤であり大切な同志。話が拗れれば、悲願である憲法改正の議論にも支障を来しかねない。折衝には神経を使った。最終的には保守派の議員たちを説得し、4月1日に政府の責任のもとで、閣議決定を経て新元号を発表することを決めた。
元号スクープの重圧
新元号のスクープはマスコミ各社にとって、まさに社運を賭けたテーマだった。平成への改元時には成し得なかった幻のスクープを前に、取材は日に日に激しさを増し、記者たちは殺気立っていた。
私も「他社に抜かれるわけにはいかない」と思う一方、心の中には複雑な思いも抱えていた。「組閣人事のように1分1秒でも早く報じる案件と、元号報道は同じ次元ではない。元号は国民に歓迎される環境が必要で慎重を期す分、特ダネ合戦には馴染まないのではないか」。そんな考えも頭の中を去来した。「それとも、厳しい取材競争から逃げたいだけの言い訳なのだろうか……」。記者人生の中で最も苦しい重圧を味わった時期だった。
発表までの間、元号案は厳重に秘匿される。天皇のおくり名にあたる元号が事前に漏洩することは天皇への非礼となり、ひいては政権の大きな汚点にもなる。普段は気さくに話をする安倍も元号に限っては「国家の形に関わることだから……」と極めて口が堅かった。
ただ、発表当日に情報が無いまま慌てて解説することは避けたい。何とか正確な情報を発信したかった。
元号案は生前退位が発表される遥か前、2000年代始めから東洋史や中国文学など複数の専門家に政府が打診して、議論が進んでいた。ただ、本格的に動き出したのは、2019年2月8日の「新元号の選定手続きに関する検討会議」で方針が決定してからだ。この時点では20から30近い候補案があった。3月中旬になると、安倍、菅義偉官房長官、杉田、古谷一之副長官補、開出英之内閣審議官のわずか5名のみで検討を進めた。側近の総理秘書官ですら外されている。
実は当初「令和」は候補に存在しなかった。政府内では「万和」や「英弘」などが有力視されていた。「万和」は明快で新天皇皇后のイメージにも合致する案だった。「英弘」も安定や調和を意味するが、人の名前を想起させ、天武天皇の治世を賛美する文章からの引用であるため、現代社会にそぐわないとの難点も見られた。安倍は「どれも決定打に欠ける」と口にした。元号は今後数十年にわたり国民の生活に根差していく。「果たしてどんな元号が国民に受け入れられるのか」――刻一刻と発表の期限が迫るにつれて安倍は悩みを深めていった。
そんな中、発表わずか5日前の3月27日に追加案として登場したのが「令和」だった。考案者の中西進は、2014年6月に複数案、前年の8月にさらに数案、計10以上の案を提出していた。ただ、当時はまだ「令和」は存在せず、土壇場で案出されたことになる。
最終候補として安倍の前には「万和」「英弘」「広至」「万保」「久化」、そして「令和」が並んだ。意中の元号は令和だ。645年の「大化」から「平成」までの247元号のうち、確認できる出典はすべて漢籍。安倍は史上初となる国書からの出典にこだわった。
令和は万葉集の「梅花の歌」の序文『初春の令月にして 気淑(よ)く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後(はいご)の香を薫す』からの引用である。のちに安倍はこう語っている。
「目を閉じ、『令和』と耳にした瞬間に、この文章が書かれた早春の太宰府が浮かび、梅が咲き誇る風景が立ち現れてくる。それがとても気に入ったんだ」
皇太子の嬉しそうな表情
苦悩のすえに安倍が心の中で決断したのは、令和の案が提示された翌日の28日のこと。この日、安倍は公明党代表の山口那津男と桜を観賞しながら昼食を共にした。その直後の囲み取材では記者たちを前に、こう語っている。
「あと1か月と少しで新しい時代がやってくるが、皆さんの夢や希望が咲き誇る、そういう時代にしたい」
令和の由来となる文章を連想させる発言であり、元号を心に決めた安堵感が滲み出ていた。
さらに翌29日、安倍は天皇と皇太子に候補案を内奏している。事実上、この日に新元号が決まったと言えるだろう。まず午前中に安倍は天皇のもとに赴き、候補となる6案を並べて示した。一番左に置かれたのが令和だった。
「この6案を有識者会議に諮り、決めてもらおうと思います」
そう言うと、順番に候補の説明をしていった。天皇は意見を述べられず、いずれの候補案にも頷き、「次の世代のことなので」と未来を託すかのような雰囲気だったという。
午後の皇太子への内奏でも同様の説明を繰り返した。最後の令和の番になると、その二文字を見つめながら、安倍はこう語った。
「これは万葉集を編纂した大伴家持の父、大伴旅人が作った歌の序文の引用で日本古来のものです。咲き誇る梅の花のように日本人一人一人に輝いてほしいとの意味が込められています」
噛みしめるように説明を聞いていた皇太子は、その瞬間、嬉しそうな表情を浮かべ、頷かれたという。安倍も自分の考えに確信を得ることができた。
発表当日の4月1日。午前9時32分から、首相官邸4階の特別応接室で有識者会議が行われた。情報漏洩を防ぐため、部屋一帯には妨害電波が張られ、識者たちは携帯電話を手元に置かずに所定の場所に預けている。
厳戒態勢の中、最終的な6候補を前に、作家の林真理子や新聞協会会長の白石興二郎ら識者が会議に臨んだ。ただ、思いのほか早く結論は出た。「新しい御代にふさわしい」「響きが新鮮だ」との理由で、識者の大半が令和を推したのだ。
午前10時58分からの全閣僚会議では「英弘」や「広至」に賛成する意見もあった。閣僚の中には「『令和』と『昭和』が被る」との理由で異議を唱える声もあがった。だが、その他、大半の閣僚が令和を推し、最後は安倍の判断に一任された。安倍は「有識者、閣僚の意見を踏まえ、国書である万葉集を典拠とする令和でご了解いただきたい」と締め括っている。
「マン卓」のボタンを前に緊張
閣僚会議が長引いたことで、全体の進行は予定より10分ほど遅れた。
一方の官邸では、閣議決定を受けて、杉田が宮内庁長官の山本信一郎に新元号を連絡。上奏書としてしたためられた新元号の政令は、ただちに皇居に運ばれ、天皇の御名御璽、つまり署名と捺印を得ている。11時30分、一連の段取りを終えて、後は発表を待つだけとなった。
結局、この時点までは新元号がスクープされることはなかった。しかし正式発表まで、予断を許さない。
その日、私は朝からNHKの報道スタジオで解説をしていた。同じ時間、スタジオに隣接するニュースセンターの一角は極度の緊張感に包まれていた。そこにはマニュアル卓、通称「マン卓」と呼ばれる特別なデスクがあり、ボタンが並んでいる。その一つを押すと、「ピロリロリーン」と音が鳴り、テレビ画面上に速報のテロップが流れる仕組みだ。政治、事件、災害……速報を伝えるため、幾度となくこのボタンが押されてきた。すでにテロップは作成されており、担当者は緊迫する空気の中、今か今かと手に汗を握りながらボタンを押す構えに入っていた。
11時40分、菅が会見室に入る。壇上に上がり、間を取りながら慎重に説明していく。「本日、元号を改める政令を閣議決定いたしました。新しい元号は――『れいわ』であります」。そう言うと、「令和」の二文字が書かれた浄書を高らかに掲げた。カメラのシャッター音がけたたましく鳴り響く。緊張感が最高潮に達したその瞬間、速報のボタンが押された。NHKの画面には「新元号は『令和』官房長官が発表」のテロップが流れた。
「万葉集でしたね」
画面がスタジオに替わると、私は即座に令和の由来を解説した。
「日本最古の歌集で、7世紀の終わりからおよそ1世紀かけて断続的に編纂されたものです。国文学にこだわったことが見て取れます」
あの瞬間のことは鮮明に覚えている。
トランプに明かした皇室観
今になって振り返れば、安倍の皇室への想いが率直に表明されたのは、実はトランプとの首脳会談だったかもしれない。その際の様子を安倍は私に詳しく教えてくれた。
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