出口治明の歴史解説! 『キングダム』『進撃の巨人』に出てくる城壁が日本にないのはナゼ?
歴史を知れば、今がわかる――。立命館アジア太平洋大学(APU)学長の出口治明さんが、月替わりテーマに沿って、歴史に関するさまざまな質問に明快に答えます。2020年6月のテーマは、「衣食住(ライフスタイル)」です。
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※本連載は第33回です。最初から読む方はこちら。
【質問1】日本の租庸調と同じように、労働や布が税金の代わりになった国はほかにもあったのでしょうか?
日本にいわゆる租庸調が導入されたのは、これまでは日本書紀の記述により改新の詔(みことのり)以降のことだと考えられていました。しかし、近年の研究では改新の詔は大幅に潤色されたものであることが明らかになっています。おそらく持統天皇のころ、律令制の導入とあわせて租庸調の税制も導入されたのでしょう。
古代の税制の基本は租庸調つまり農作物、労働、布でした。中国の税制を真似ながら、日本風にアレンジしたものです。たとえば、調にあたる布が納められないときは、地方の特産品を代わりに納めればいいとされていました。日本で貨幣経済が始まったのは、平清盛(1118~1181)が宋銭を輸入して流通させたあとのことですが、日本では税金を原則としてお金で納めるようになったのは、実は明治以降のことです。
租は「田んぼ1段(300坪)につき2束2把」と決められていました。これは籾米なら39.6リットル、玄米なら19.8リットルで、収穫量の3~10%に当たるそうです。江戸時代の四公六民は40%が税ですから、農作物だけで見れば税が軽いですね。
庸は本来、男性が地方から京の都にのぼって働くことで、21~60歳(正丁)と61歳以上(次丁)の区別がありました。「都までいって働くのはしんどい」と思ったら、米や布など別の形で代納することもできました。
調は主に麻織物で、貴族が使う絹は別格でした。農作物と労働に比べると、布は長期保存ができて、また別のものに交換できます。そのメリットは大きいので、貨幣経済が広がるまで、布での納税は世界共通だったようです。
お金による納税では、明の時代に張居正(1525~1582)が導入した一条鞭法(いちじょうべんぽう)がよく知られています。いまでいう不動産税(地税)と住民税(丁税)を銀で払うというものです。
当時の中国は、鎖国(海禁)政策が緩み、日本やメキシコの銀が大量に入ってきました。アメリカ大陸の銀山を握っていたヨーロッパの国々は、お茶や絹や陶磁器といった中国の世界商品を銀で買っていたのです。
銀が中国の国内で流通するようになったので銀納が可能になったのです。このことからわかるように、金銭が市中に十分に供給されて初めて、金銭による納税が可能になるのです。いわば古代から中世にかけては、世界中が物納していたのです。
【質問2】海外を旅行すると『キングダム』や『進撃の巨人』のように町全体を囲う城壁がどこにでもあります。ところが、日本では町全体を囲むような広範囲の城壁はほとんど目にしません。なぜでしょうか?
これはもう、単純に国力(GDP)、つまり経済力の問題です。
たとえば、平城京(奈良)やそれ以降の都だった平安京(京都)は、唐(618~907)の長安を真似てつくったといわれています。ところが、長安城は町を囲う城壁があるのに、平城京にも平安京にも城壁はありません。「外国の軍隊に攻められないのだから城壁はいらんやろ」という考えもありますが、果たしてどうでしょう。
実は平城京も平安京も造営計画は途中で頓挫したことが明らかになっています。理由は、資金不足でした。
もともと長安城に比べたら、どちらもミニチュアサイズです。モデルとなった長安城は、東西9.7km、南北8.6km。これと比べて平城京は、外京を除いて東西4.3km、南北4.7km。東西と南北の長さがだいたい半分なので、面積は4分の1ぐらいです。平安京も東西4.5km、南北5.2kmと広さはそれほど変わりません。どちらも長安城と比べたら4分の1サイズでした。
古代日本の国力は、人口が唐の10分の1で、1人当たりGDPは、唐の半分以下ですから、国力は唐に比べて20分の1程度。個人にたとえるなら、お金持ちの大豪邸に憧れて、年収が20分の1しかないのに、大豪邸を真似た4分の1サイズの家を建てるようなものです。建設途中で資金が尽きてもちっともおかしくはありません。
当時の日本は、なぜそこまで頑張ったのでしょうか。平城京も平安京も、唐からの使節や新羅(B.C.57~935)からの使節に見せることが大事な目的の一つだという説があります。国力が20分の1だからといって、20分の1サイズのミニチュアにしてしまうと、外国の使節に馬鹿にされてしまいます。4分の1でもいいから立派に作れば「この国は大したもんだ」と感心してくれるかもしれません。それに、使節にはどうせ表通りしか見せませんから、通りに面したところだけ立派にすればよいと考えたのでしょう。明治時代の鹿鳴館と同じ発想です。
あえて中国やヨーロッパの城壁に近いものをあげるとすれば、近世の城郭でしょうか。大坂城や江戸城は城壁ならぬ、お堀と石垣に囲まれていました。しかし、お城に石垣が作られるようになったのは、戦国時代も後半になってからです。その時代まで、日本では町を取り囲むような石の壁を作る高度な技術がなく、さらに権力者のもとにも、城壁を作るお金がなかったと考えるべきでしょう。
(連載第33回)
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■出口治明(でぐち・はるあき)
1948年三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。ビジネスから歴史まで著作も多数。歴史の語り部として注目を集めている。
※この連載は、毎週木曜日に配信予定です。
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