【蓋棺録】佐藤忠男、藤子不二雄Ⓐ、宮崎学、見田宗介、M・オルブライト
偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。
★佐藤忠男
映画評論家の佐藤忠男(本名・飯利忠男)は、庶民の実感に根差した映画批評を論理的に書き続けた。
23歳のとき日本映画論である「任侠について」を『思想の科学』に投稿する。同誌の中心人物・鶴見俊輔は、原稿を採用しただけでなく、仲間に「分析的な文章を書く人です」と紹介してくれた。そのときの嬉しさを佐藤は後々まで忘れなかった。
1930(昭和5)年、新潟県の入船町に生まれる。9人きょうだいの末っ子。父は漁具店を経営していたが、佐藤が3歳のとき脳溢血で亡くなり、店は母が仕切った。小学生の頃には『少年倶楽部』が好きになり、本を読み始めると夢中になった。
校長が愛国者で有名な旧制中学を受験したが意外にも落ちて愕然とする。しかし、面接で明治天皇の御製が読み上げられたさい頭を下げなかったせいだと知り、「もう中学は行かないと決めた」。
代わりに佐藤が志願したのが海軍の少年兵だった。「そうすれば、本当に愛国的なのは自分なのだと証明できる」と思ったという。母親は泣いてとめようとしたが、佐藤は意固地になって入隊。しかし、訓練が始まって3カ月後に敗戦を迎えることになる。
戦後、国鉄(現・JR)の鉄道教習所に入り、給料をもらいながら本を乱読、休みの日は映画館に通った。強く印象に残ったのはアメリカの男女が明るく振る舞う『春の序曲』だったという。教習所を出る頃にはシナリオ作家になろうと思い始めていた。
国鉄職員として働き始めるが、半年後に行政整理のため解雇される。そこで日本電信電話公社(現・NTT)の臨時工となり、定時制高校にも通い映画雑誌に投稿を始めた。この職場で出会った久子とは後に結婚するが、4度のプロポーズは空振りだった。
最初の本は56年の『日本の映画』でキネマ旬報賞を受賞する。翌年に上京して『映画評論』編集部に勤め、『黒澤明の世界』や『日本映画思想史』などを刊行、アジアの映画を紹介するのに力を注いだ。73年には妻と個人雑誌『映画史研究』を創刊する。
家にいるときは妻の買物についていくことが多かった。八百屋などで待つ間は立って本を読んでいるが、声をかけられても返事をしない。八百屋のおかみが「テレビに旦那さんそっくりの人がでてましたよ」というので、妻が「それはうちの佐藤です」と答えると、おかみは「でもその人はしゃべっていましたよ」と驚いた顔をしたという。
89(平成元)年に妻の久子と共に川喜多賞を受賞。96年より日本映画学校の校長、2011年に大学に改組されると学長に就任した。80歳を超えても毎日2本の映画を見続け、19(令和元)年に文化功労者に選ばれている。(3月17日没、胆嚢癌、91歳)
★藤子不二雄Ⓐ
漫画家の藤子不二雄Ⓐ(本名・安孫子素雄)は、合作漫画家・藤子不二雄の一人として活躍し、独立してからも新しい試みに挑戦した。
数十年間続いたコンビを「解消しよう」と言い出したのは藤本弘(藤子・F・不二雄)の方だった。最初は驚いたが、完全な合作は『オバケのQ太郎』までだったので、安孫子も「時期がきたんだな」と納得したという。
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