医療現場はもう限界……東京都医師会長の警告「政治家は現場に来い!」
「これ以上、東京都は持ちません!」
3月下旬、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、医療現場は崩壊の危機に瀕していた。一向に緊急事態宣言を出そうとしなかった政権に反旗を翻した異色の医師がいた。尾﨑治夫、東京都医師会長。決死の覚悟で放った尾﨑のメッセージとは何だったのか。/文・辰濃哲郎(ノンフィクション作家)
都医師会長の型破りな呼びかけ
3月下旬、東京都医師会長の尾﨑治夫は、明らかに苛立っていた。
「ふざけんなよ。現場がどうなっているのか、わかってんのかって言いたいよ」
もともと口が悪い方ではあるが、髭面のいかつい顔が、さらに前のめりになってくると迫力は満点だ。
尾崎治夫・東京都医師会会長
新型コロナウイルスの感染拡大によって、東京では医療崩壊が叫ばれ始めていた。にもかかわらず、一向に緊急事態宣言を出そうとしない政府の姿勢が我慢ならないのだ。
つい2週間ほど前、東京と同じように小康状態を保っていたイタリアやスペイン、それに米国のニューヨークの感染者数が、瞬く間に何倍にも膨れ上がって医療崩壊につながっていった。その様子を訴える医師や看護師の緊迫した映像が、脳裏に焼き付いて離れない。
「日に何百人もの死者を出して悲鳴を上げている医療現場。こんな悪夢、日本では見たくない」
3月中旬まで、東京都の1日の感染者数は10人以下で推移していた。ところが、23日には16人、翌17日には17人と不穏な数字が続き、そして25日、一気に41人の感染者数を記録した。翌日から47人、40人、63人、68人と高止まりの様相を呈している。
日本の場合、行政が公表する感染者数は実態を反映しているとは言い難い。医療崩壊を防ぐために、発症した者のうち肺炎などの所見があって、初めてPCR検査を受けられる。感染とわかれば感染症法に基づいて入院隔離が必要となるため、無症状や軽症の感染者が病床を埋めて医療機関がパンクしかねないからだ。
だが尾﨑が気になったのは、どこで感染したのかを、たどれないケースが増えてきていることだ。市中に感染が蔓延しているのだろう。小池百合子都知事の外出自粛要請にもかかわらず街は若者で賑わい、海外旅行に出かける学生もいるようだ。彼らだけを責めるつもりはないが、自粛を促す必要があると感じていた。
どうやったら、若者に思いが届くだろう。ユーチューブで訴えてみてはどうかと、人づてに著名なユーチューバーに頼んでみたが、医師会とのタイアップには難色を示された。では、とりあえずフェイスブックで声を上げてみよう。
26日の深夜に、「東京都医師会長から都民の方にお願い」とのタイトルをつけてアップした。会長室にあるロボット犬の「アイボ」が撮った自分の写真を添えた。赤いボールを手にアイボの前にしゃがみ込んで、笑みを浮かべた写真だ。
「アイボが撮った写真です。平和ですね。でもこうした平和が、あと2、3週間で崩壊するかもしれません」との書き出しで始まる。
感染者の急激な増加に危機感を抱き、「今が踏ん張りどころなのです」と語りかける相手は若い世代だ。「もう飽きちゃった。どこでも行っちゃうぞ…。もう少し我慢して下さい。密集、密閉、密接のところには絶対行かない様、約束して下さい。私たちも、患者さんを救うために頑張ります」
都医師会長というお堅い肩書のわりには型破りな呼びかけに、メディアも反応した。テレビ取材が殺到し、ネットメディアでは1万2000を超えるシェアを記録したものもある。尾﨑は思った。きっとみんな不安なんだ。
恐怖におびえる都の医療現場
尾﨑は、東京で医療崩壊を招くことを最も恐れていた。感染症の指定病院や「コロナ外来」と呼ばれる77か所の受け入れ病院の病床は、ほぼ満杯だ。そのうえ毎日、新たに判明する数10人の感染者を受け入れなければならない。
病院をパンクさせては、十分な医療が施せない。救える命を救えなくなるからだ。しかも防護服やマスクの不足で、医療従事者は常に感染リスクを抱えながら、その恐怖と闘っている。勤務する看護師が、泣きながら働いているという話も聞く。
都医師会はこのころ、小池都知事と協力して軽症や無症状の感染者を病院からホテルに移す計画を練っていた。病床を空けることによって病院の負担は減るはずだ。ホテルに移った感染者のケアは都医師会が担う。
実務を担当したのは、都医師会副会長の猪口正孝だ。11年の東日本大震災当時、全日本病院協会の災害対策副本部長だった猪口は、被災地を巡り医療体制の提供から支援、復興に至るまで関わり続けた経験がある。都医師会の常任理事になってからは都の災害医療改革を手掛け、小池都知事との信頼関係も築けている。
軽症でもホテルで容態がいつ急変するかわからない感染者を医師会が管理し、悪化すれば病院に運ぶ。医師の手配からホテル内の安全・危険ゾーンの区分に至るまで奔走した。PCR検査で2回陰性が出れば退院できるが、検体を採る際の感染を防ぐ対策にも気を遣った。スキームが出来上がったのは31日だ。
緊急事態じゃないなら現場に来い
尾﨑らが最も腐心したことの一つが、受け入れ病院と病床の確保だ。だれしも感染者を受け入れることには難色を示す。他科の入院患者がいるし、医療従事者が感染すれば、病院全体が機能不全に陥る。思うように空き病床は増えていかない。
尾﨑は、医療機関に協力してもらうには、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が必要だと考えていた。自粛要請の効力だけでなく、医療機関の協力も得やすくなる。感染を防ぐ物資も優先的に回ってくるはずだ。感染症と闘うには、ときに強権発動が必要だ。
ところが、政府は緊急事態に慎重な姿勢を崩そうとはしない。国会議員から「これ以上経済が落ち込むことは避けたい」と何度言われたことか。安倍晋三首相は3月28日の記者会見で「まだギリギリ持ちこたえている」と宣言を先延ばしにし、菅義偉官房長官も会見で「まだ必要な状態ではない」と否定した。
ちぐはぐな対応を繰り返した安倍首相
都医師会長室でインタビューに応じていた尾﨑の声のトーンが上がってきたのは、この話に及んだときだ。
「確かに経済は大切だ。でも、感染症に打ち勝たなければ経済は成り立たない。経済のために宣言できないとしたら、悲しいことだよ」
そして、語気を強めた。
「現場からは、もう無理だ、何とかしてくれ、という声が上がってきてる。こんなんじゃ、患者を救えない。緊急事態じゃないって言うなら、国会のなかで閉じこもっていないで現場を見に来いって言いたいよ!」
日医も安倍政権に楯突いた
政権与党である自民党に診療報酬の上げ下げを握られている医師会にとって、あからさまな反旗は食い扶持が減らされる懸念がある。それだけではない。将来は日本医師会の会長候補との呼び声高い尾﨑にとって、失点につながりかねない。それでも尾﨑は、ひるまなかった。
30日早朝、尾﨑は日本医師会長の横倉義武にフェイスブックのメッセージ機能でメールを送った。
尾﨑「一両日中に、緊急事態宣言を出すよう政府に進言してください。私は猶予はないと思います。マイルドな自粛要請では、もう無理です」
横倉「検討してみます。緊急事態宣言を出したら、東京都知事はじめ各県知事の権限になると思います」
尾﨑「知事には今日電話して早めの日本型ロックダウン(都市封鎖)を改めて要請しました」
横倉と尾﨑は少なからぬ因縁がある。前回の18年の日医会長選で、4選目を目指した横倉は、それまで自身の執行部で副会長を務めていた大阪府医師会出身の松原謙二を推薦しないことを決めた。いわば医師会からの放逐なのだが、その松原を推して再選させたのが尾﨑だった。
だが懐の深い横倉は、それ以降も尾﨑に目をかけてきた。横倉にとって尾﨑は、強面ながら憎めない弟のような存在なのだという。今回の新型コロナ禍でも、頻繁に連絡を取り合い、尾﨑には「東京が動くと全国も動く。モデルとなる医療体制を作れ。国との交渉は私が引き受ける」と伝えていた。
横倉は、尾﨑からのメッセージを受け取ったその日、日医の感染症担当の釜萢(かまやち)敏常任理事に緊急記者会見を開くよう命じたという。そこで釜萢は、個人的な見解と断りながらも緊急事態宣言が必要だと表明した。4月1日の定例記者会見では、横倉自身が緊急事態宣言を求める「医療危機的状況宣言」と題する文書を発表した。安倍首相との蜜月を背景に4期8年にわたって日医のトップを守ってきた横倉が、政府に楯突いたことになる。だが、横倉は言う。
「こんな状況の時に都医師会を側面から支援するのは当然のことだ」
一方で、横倉は政府に対する配慮も忘れない。加藤勝信厚生労働相の「なんとか穏便に」との要請を受け、「医療危機的状況宣言」の「的状況」を付け加えることでニュアンスを和らげたのだ。尾﨑の意を酌みながらも政府にも気を遣う。ここが横倉の真骨頂でもある。
そのころ、尾﨑の元には自民党の医系議員から連絡が相次いでいた。「自民党の国会議員のうち経済重視派は8割。医療優先派は2割しかいない」「安倍首相は経済重視派に取り囲まれていて思考停止状態だ」
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