権力論——日本学術会議問題の本質はここにある
日本学術会議を巡る問題は、もはや当事者の当初の意図を離れ、収拾がつかなくなっている。複雑に絡み合った問題を解きほぐす。/文・佐藤優(作家・元外務省主任分析官)
<この記事のポイント>
●「学問の自由に対する介入」という批判がなされているが、もともと菅政権にそこまでの意図はなかったのではないか。しかし、この諍いが続くことで「予言の自己成就」が起きてしまうかもしれない
●今回の“影の主役”は共産党。官邸の意図とは別に、発言力が増した「情報官僚」たちが“欲動”のままに動き、共産党系の学者を排除した
●学術会議側が今回定員105名分の候補者しか出さなかったのは官邸からすれば明らかな「ルール違反」で、約束を違えているのは学術会議の方。官邸が“強行姿勢”を取った裏には、こういう理屈があった
佐藤氏
権力と知の関係
「予言の自己成就」という言葉があります。根拠のない予言(思い込み)であっても、人々がそれを信じて行動することで、結果的に予言が成就してしまう現象のことです。例えば、「A銀行が危ない」という根拠のない噂が広まることで、預金者が預金を引き出して、実際にA銀行が倒産してしまう。社会学者マートンは、この言葉で現代社会が抱える危うさを指摘しました。
いわゆる「学術会議問題」をめぐって、同じようなことが起こるのを私は危惧しています。
「政府の一連の対応は、学問の自由に対する介入だ」という批判がなされていますが、もともと菅政権にそこまでの意図はなかったと私は見ています。しかし、この諍いが続くことで、結果的に「学問の自由に対する介入」が本当に起きてしまうかもしれない。まさに「予言の自己成就」です。
この問題を通じて我々が考えるべきなのは、「権力とは何か」「政治家・官僚・学者の関係はどうあるべきか」そして「権力と知が、いかに異なる原理に基づき、いかに緊張関係にあるか」ということです。
すでにこの対立は、続けば続くほど、双方の溝が深まってしまう“悪循環”に陥っています。もはや当事者の当初の意図から離れ、さまざまな偶然が複雑に絡み合って収拾がつかなくなっています。ここまで紛糾してしまった問題を、まずは解きほぐしてみたいと思います。
なぜいまこの問題がこういう形で起きているのか。それを理解するには、「問題の起点」を今回の任命拒否よりも前に、安倍第2次政権の成立時に、置き直す必要があります。
安倍前首相
長期政権による「行政権」の拡大
といっても、「安倍政権は右派で、これを引き継いだ菅政権だから、こういう問題が起きた」という話をしたいのではありません。安倍首相の「戦後七十年談話」にしても、「満州事変から日本は間違った」という見方で、基本は「東京裁判史観」です。安倍政権も菅政権も、世間で言われるほど“右派”ではありません。
それよりもポイントは、安倍政権が長期化したことで、司法権や立法権に対して「行政権」が構造的に優位に立ったことです。特定秘密保護法の制定も、東京高検の黒川弘務検事長の定年延長問題も、「行政権の優位」という文脈に位置づけられます。菅政権もこうした権力基盤を引き継ぐことで成立し、コロナ対応で、さらなる「行政権の優位」が生じています。
激動する国際情勢も無縁ではありません。危機の時代には、「議会での面倒なチェックなど国益を毀損するだけだ」と考える行政官が出てくるものです。行政側にそういう“欲動”がどうしても高まってくる。
近代史家の加藤陽子氏は、今回の任命拒否の当事者にもかかわらず、冷静にこう指摘しています(毎日新聞「加藤陽子の近代史の扉」10月17日付)。
「歴史家の仕事は『作者』の問いの発掘にあり。そこで、なぜ日本学術会議の名簿から6人が除外されたのか、『作者』たる首相官邸の側の思索の跡をたどってみたい」「(人文・社会科学の軽視というより)人文・社会科学が科学技術振興の対象に入ったことを受け、政府側がこの領域に改めて強い関心を抱く動機づけを得たことが、事の核心にあろう」
全く同感です。ただ、今回に関しては、より踏み込んで「作者の問い」を「作者の無意識」と読み替えた方が良いのではないか。一連の動きを見ていると、菅首相、加藤勝信官房長官、杉田和博官房副長官といった官邸中枢が主導的な役割を果たしているようにはどうしても見えないからです。高度な政治意思が初めから働いていたのであれば、政権もここまでうろたえなかったのではないか。明確な意図があれば軌道修正も可能ですが、「行政権の拡大」がほぼ無意識に“欲動”のままに行われているから、厄介なことになっている。
今回、その“欲動”の真の標的は、日本共産党系の「民科(民主主義科学者協会)法律部会」でした。松宮孝明氏、岡田正則氏、小沢隆一氏は、いずれも「民科法律部会」の関係者です。
ただ、民科の3人だけを対象にすると、共産党を狙い撃ちにしていることがあまりに露わになってしまう。おそらくそこで、加藤陽子氏、キリスト教学の芦名定道氏、政治思想史の宇野重規氏の3人が、さしたる吟味もなしに加えられてしまった。下品な言い方をすれば“まぶした”わけです。しかし、その“まぶし方”があまりに杜撰で、言ってみれば“欲動”の暴走です。初めから官邸中枢が意図的に関わっていたら、こんな稚拙なやり方はしなかったはずです。
例えば私自身、共著も出したことのある加藤陽子氏は、福田内閣時代に「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の委員を務めています。また上皇ご夫妻は、在位中に、歴史家の半藤一利氏、保阪正康氏とともに、加藤氏を御所に招かれていました。そういう加藤氏を排除することは、「官僚の論理」からすれば、本来あり得ません。「福田政権」や「宮内庁」の評価と軋轢が生じることになり、リスクが高すぎるからです。
加藤氏
主役は情報官僚と共産党
行政の中枢(官邸)の意図とは別に、ここで“欲動”のまま動いているのは、「情報を扱う官僚」(警備公安担当の警察官僚だけでなく、法務官僚、外務官僚、防衛官僚のうち情報部門への勤務経験がある者)です。しかも長期政権下で、この人たちの発言力は増しています。
情報官僚にとって、共産主義は、いわば“形而上学的”と言っていいほどに忌避すべき対象です。これには法的根拠もあって、公安調査庁は、日本共産党を破防法(破壊活動防止法)にもとづく調査対象団体に指定しています。彼らは「共産党は国家を転覆させる危険な存在である」という意識の下で、いわば“職業倫理”として日々の調査業務にあたっている。その彼らの監視対象である共産党が、今回もう一方の“影の主役”であることに注意する必要があります。そもそも、今回の任命拒否を“スクープ”したのも、共産党機関紙の『赤旗』です。
情報官僚からすると、共産党系の学者とのつきあいが、おのずと緊張を孕むものとならざるを得ないのは、外務省時代の経験から、私自身も皮膚感覚で分かります。しかし、権力の“欲動”を野放しにしてはいけません。
外務省に勤めていた旧ソ連時代と冷戦崩壊直後は、アカデミズムにおける左派の影響は今より大きく、例えば、モスクワでの学者の委託研究に予算をつける場合などに常に問題になりました。担当の事務官や課長補佐などから「予算をつけるべきではない」といった決裁書が上がってくると、首席事務官(外務省独自の役職で他省の筆頭課長補佐に相当)や課長が、「そういう狭い了見ではいけない。政府の立場と違っても、一級の学者の学知を吸収することに意味があるんだ」などと諭すわけです。
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