亡祖母の生まれ故郷まで行ってきました(和歌山県伊都郡花園村)
【最終更新日時:「令和四年八月拾七日午後拾七時弐拾八分」】
すべてを放り出して、おおよそ20年ぶりに来た花園村(かつらぎ町・花園地区)は、
そんな村へと行こうと思ったのはなぜなのか。それらを、つらつらと載せていきます。
この祖母の生まれ故郷は、かつて大水害に見まわれ、壊滅的被害を受けている。
紀州大水害(七・一八水害)のこと
しかし、その詳しい話を私は何も知らなかった。私が物心ついてから平成29年に祖母が没するまでの長い間に、いくらでも話を聞けたはずだが、とうとう聞けずじまいなまま祖母は他界してしまった。祖母の生まれ故郷はどんなところなのだろうと思い、いつかは行ってみようと思っていた。そして、日程と予算の都合が合ったため、祖母が生まれ育ったその場所が今、どんな風になっているのかと行ってみることにした次第である。
花園村の紀州大水害を初めて知ったのはいつ頃だったか。少なくとも15歳ぐらいのときには、さほど認識していなかった。「昔、水害で流されてんのよー」と誰かから軽く教わっていたぐらいのものであり、とても軽い認識でいた。
二段構えの大水害
昭和28年7月18日に発生したこの水害は、甚大な被害をもたらした結果、花園の地に天然ダムを形成した。しかし、この年の9月25日に通過したテスという通称の台風(昭和28年台風第13号)により、このダムが決壊した。有田川流域をはじめとする各地域に甚大な被害をもたらした大水害は、まさかの二段構えのものだった。
テス台風襲来は、紀州大水害からたった2ヶ月あまりの出来事なのである。
書籍『水害地の子(※非売品)』
花園村の水害の様子については聞き取り調査がなされており、『水害地の子』という本が出版されている。
花園村の各在所には、この水害を忘れまいとする記念碑や、その爪痕を示す掲示が、至るところに存在する。
それを今回、間近で見てきた。
祖母の話
七人姉妹の五女として生まれた祖母は、20代前半のときに水害に遭った。そして、住み慣れた故郷を離れざるを得なくなった。
吟詠の師範でもあった祖母は、歌うのが好きで、童謡『ふるさと』を口ずさむときには時折涙を流していた。特に三番目の歌詞で。
その理由が、今ではよく分かる。
祖母の日常
祖母は私が生まれたときから家にいて、祖父が亡くなってからも15年ぐらいは生きていた。
朝、デイサービスの迎えが来たあと夕方には帰ってくるという、学生と同じようなそんな時間の割り振りが主だった。帰宅後、夕方には団地をぐるっと一周散歩しに行ったりと、気がつけばふらっと出かけたりもしていた。
加齢等により視力が極端に衰えていたが足腰は丈夫で、しょっちゅう、近所の歯医者や散髪屋へと杖を突きながら通っていた。特に、歯医者への行き帰りに際しては、家内の誰かが必ず付添人の役目を果たした。歯医者までの道は、ただの散歩とは異なり、信号を渡らねばならなかったためである。
帰りは、私を含むきょうだいのうちの誰かが迎えに行く。というのが常であった。
目がほとんど見えないのに、それでも冬場になると時折ふかしいもを作っていたりもした。コンビニまで中華まんを買ってくるよう頼まれることもあった。
しびれを切らして祖母自ら買いに行くことも時々あった。大通りを越えて。今にして思うと、非常に危なっかしい話である。だが、
そんな祖母も、晩年には倒れた。
いつまでもそこにいて当然のごとく感じていた部分もあった。祖父の死後も長生きしたので、なおさらそのように思っていた。
しかし、遅かれ早かれ、人は必ずいつかその生涯を終える。そして令和元年、祖母の葬儀にも来ていた大伯母の訃報が飛んできた。
大伯母の話
この大伯母は、祖母の筋の家督を継いでいた人で、私が初めてきちんと出会ったのは私が15歳か16歳のときである。
ある日、学校から家に帰ると、大伯母1人に大叔母2人の計3人が玄関先にいて、
と、非常に強く衝撃を受けたのを、今でもよく覚えている。祖母にきょうだいがいることも、このとき初めてきちんと認識した。
四姉妹の二番目が祖母であるとばかり思い込んでいた。
その後、平成22年08月に祖母は倒れ、入院し、一度退院するも再入院している。その後、彼女が戻ってくることはなかった。平成23年09月08日に授業が終わったあと私が見舞いに行ってきたという記録もある。
平成25年01月13日から平成29年03月21日までのどこかの日に、私は花園村の筋の家系図を発見している。そこには、昭和47年の時点でまとめたものである旨が記されており、当然、平成生まれである私や姉は載っていない。
この系譜上では、祖母について、五人姉妹である書かれ方をしているので非常に驚いた。
それゆえに、実際には七姉妹であったことを知ったときには、さらに驚いた(※間2人は夭逝していて、一番上も20代半ばで亡くなっていた)。
そして、揃いも揃って残りの姉妹3人がかりで我が家へ挨拶しに来てくれたこと自体に、当時は本当に心から感動した。母方での親戚付き合いに比べると、父方の親戚付き合いは希薄化していたためである。
祖母のきょうだいについて、私が15歳か16歳のときに存命であった4人。
その名を、出生順で口にする形で、大伯母・祖母・上の大叔母・末の大叔母、それぞれの
名前を覚えた。
父方の親戚周辺の話
節目節目に先方から来られることはあってもそれは稀であった。父方の親戚については、こちら側からの挨拶回りというものがほとんどなかったのである。
春夏秋冬の長期休暇期間や連休期間等は、母の実家へしょっちゅう寄っていた。父の生家(祖父の本家)へと遊びに行くことはなかった。学生時代は、なぜかそれが“悪しき慣例”として続いた。
父方祖母の実家は遠方な上に水害で流れているので言うまでもなく、祖父は祖父で、婚姻後に分家していることも要因としては大きかったのだろう。
その祖父も、私が8歳になる少し前に、この世を去っている。この頃を境に父方の、特に祖父方については。叔父叔母回りを除けば、より一層、親戚付き合いが減ってしまっていた。
和歌山県伊都郡花園村
この村には、それぞれ、「梁瀬・北寺・新子・池之窪・中南・久木」という在所がある。これらの地名は、伊都郡かつらぎ町に吸収合併される以前は、「花園村“大字新子”」などのように、大字としての地名であった。
大字とは、現在の市町村の次に大きな行政区分である。一般的に、地方都市では、短ければコンビニ1軒分、長くとも3軒分ほどの距離感であろうと推察される。
それゆえに、「へー、“大字”か。大字っていうぐらいやし、まあそこまで大したことないやろよ」と、今回現地に行くまでは非常に楽観視していた。
大誤算である。
まちなかの大字とは違って、コンビニ2軒3軒ほどの距離どころではなかった。
そんな広大な村が【たった6つの大字】に分かれているために、大字1つ当たりの範囲は、必然的に広くなる。
そのためか花園地区では、大字であった各地区名に加え、小字名も当たり前に用いられる。
新子地区の例で言えば、かねてより知っていた金剛寺・堂原(旧土地台帳によれば堂平とあるが)の他、いずれかの在所にある南垣内という小字を今回新たに知った。
自分の住んでる場所の小字が何かって知ってる?
少し話は飛ぶが、字(あざ。大字に対しての字を小字とも呼ぶ)について。
小字は、市町村史に載っていることもあるが、普通に暮らしていても、なかなか認知する機会がない。それ以前の話として、自治会名が大字小字いずれとも異なるという地域さえある。
花園村の中心地
そして、今でこそ花園村の中心地は、役場のある梁瀬地区ではあるが、かつては新子地区にあった。大字・新子(字・金剛寺)の金剛寺大日堂付近にあったようで、今回、古いいわれを教えてもらった。
仏花である樒を高野山へと献上していたことから、この地が花園という名称になったのである。そして、中世の荘園制度の下で、紀伊国伊都郡に属する花園荘という行政区分が生まれた。
こうした歴史的経緯により、花園村は高野山との繋がりが非常に深い地域でもある。
ただし、伊都郡内のすべての村が高野山領に属したわけではない。
国としての範囲と、領主の治める管轄区域は、時代の流れと共に変化してきたのである。
【今回寄れたところ】
梁瀬の花園村役場(かつらぎ町役場 花園支所)
ここで人と待ち合わせをしていた。その方に、金剛寺大日堂まで連れていってもらい、果ては自転車までお借りした。
梁瀬の「はなぞの温泉『花圃の里』」
この旅館は、かつて「ふるさとセンター ねむの木」という宿泊施設が存在した土地にある。ねむの木から祖母に宛てた葉書が、今も自宅にある。
北寺の観音堂と、同じ敷地にある丹生高野明神社
ここには、縁戚と見られる姓のお墓があったり、オオスズメバチと見られる蜂の大きな空き巣もあった。
そして、水害の記念碑があった。石碑の形と、絵馬の形と、書の形とで。
誰かの忘れ物のデジタルカメラもあった(※あえてそのまま置かれているものである可能性を鑑みて、今回はそのままにしている)。
新子金剛寺の大日堂
この大日堂の敷地内には、立里荒神(たてりこうじん)が祀られている社がある。この社は、高野山との繋がりの深い建造物でありながらも、高野山側では重要視していない節を感じるとの話を教えてもらった。
高野山にある霊宝館との所縁があるとの話である。
新子の花園小学校跡
かつて祖母が教壇に立っていた小学校である(六女の大叔母も、すでに廃校になっている有畝小学校という場所で教鞭を執っていたという。そんな話を、七女の大叔母などから耳にしている)。
この建物は、今では簡易宿泊施設になっている。
消防団のプレハブもあった。
中南の上花園神社
令和参年拾月参拾日に、式年遷宮が行われるとあった(そうとは知らず日程が合わせられず、お祭りを見られなかった)。そのために寄進した方々の木札を持ってこられた場面に偶然居合わせた。
業者を手配して社を塗り替えたという話も、社務所の方から教わった。
なんとガードレールまで真っ赤に染められていた。「俺のこの手が真っ赤に燃える」とでも言わんばかりに真っ赤っ赤に。
池之窪ならびに久木
国道沿いに散策したので、池之窪へは寄れていない。また、夕食の時間に間に合わせるために、久木へも寄れていない。
その間8km
コンクリートで車道が整備されているとはいえ、山道かつ坂道。そして、上花園神社に到着してから知ったが、梁瀬にある「はなぞの温泉『花圃の里』」と、この神社の間は、一本道ではあるが、なんと8kmの距離があった。
(※参考値として、JR天王寺駅とJR堺市駅の間の道が8.9km)
つまり、往復16kmである。徒歩の時速平均は約4km/hであり、仮に徒歩ならば一日の移動に4時間もかけることになる。
ただし、それは道が平坦な場合の話であり、山の坂道ではそれ以上に時間がかかる。当然である。
今回、ご厚意で自転車を貸してくださることになっていた方のおかげで、初日から本当にありがたかった。
空気入れがなかったので、文字通り村内を奔走したが、2日目には上花園神社にいらした方のご厚意でタイヤに空気も足してもらえた。
借り物の自転車をパンクさせずに済んだ。
自転車を漕げないような上り坂が無数にあり、行きは片道2時間近くかかった。帰りは1時間半ほどで帰れたものの、行きも帰りも坂道には変わりなかった。
行きはヨイヨイ帰りはコワイ……
ではなく。行きも帰りもヨイヨイコワイを地で行くような、そんな道のりであった。
村内を走るバスはないし。
花園村への行き方
今回、かつらぎ町のコミュニティバスを利用したが、この路線は花園村内を巡回するバスではない。あくまでもJR笠田駅前から花園バス停までを繋ぐ路線なのである。
(※花園バス停は「はなぞの温泉『花圃の里』」 の敷地内駐車場にある)
梁瀬・中南間をはじめ、花園村内の移動には、基本的に自動車を使うものという認識が現地の人の中にある。
そらそやろ。そもそも各大字の間には結構な距離があんのやからな。しかも山道という。
朝9時に出たとしても、4時間先は13時である。夕食の時間指定が理由で、今回は18時頃には宿へ戻らねばならなかったので、【平坦な道の場合、徒歩で向かうのならば、】実質5時間が散策に当てられる時間の限度であった。
実際は山道であり、もっともっと少なくなる。
道を外れてまで徒歩で散策するには、2時間3時間では到底足りない。
小学生の遠足でも、なんかもっと自由時間くれそうな気がする。
ましてや、歩き疲れるであろうことを踏まえると……、
Q.『なにこれ。修行?』
A.『はい』『いいえ』
自転車の持ち主のお住まいから、かつらぎ町役場花園支所まで。自転車でも30分はかかった。つまり、少なくとも6kmは離れていた。
自分が生まれた町を歩き回るのでさえ、一日では到底足りない。
生まれ育った市町村を散策しようと思う人は少数派であると考えている。そこが「日常の風景」であること自体がその理由である。
その反面、遠足・社会見学・修学旅行・視察、等々、非日常の出来事で赴く地域が存在する。そこは、その地に住む人からしてみれば当然に「日常の風景」でもある。
この旅の終わりには、そんなことを思うに至った。
“花園村の「 」は美しい”
こんな掲示が北寺休憩所という場所にあった。
紙漉きという文化は、この地でも行われていたのである。しかし、その工場は今や跡形もなく。和歌山県内では、清水町の保田紙が高名だが、それもすでに 文化継承の危機にある。
また来たいなと思った祖母のふるさとは大自然そのもので、美しく、まさに“秘境”であった。今回は機会に恵まれず、寄れていないところもたくさんある。図書館で花園村史を読みたかった。
祖母とも、今となってはもう絶対に会えないので、話を聞けずに後悔していた時期もあったが、よく考えれば十分な思い出がこうして残っているので、後悔する必要性は全くない。そこに思い至ってからは、心が軽くなった。かなりな。
肉まんが祖母の口癖
祖母にも口癖があったはずだが、今となっては、はっきりと思い出せない。強いて挙げるなら、本当に、冬場の「亮太肉まん買うてきて」ぐらいのものである。
それもあって、秋冬に肉まん買って食べるたんびに祖母のことを思い出す(終わり)。
総評
花園村は、本当に楽しかった。今回は1人で行ったから、今度は誰か別の奴を引き連れて行くのもいいな。
次回は丹生都比売神社のお話です(以下次号)
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