例えば1人カラオケは小宇宙かもしれない
散歩してみようかと一日の最後に思い立って、4月の冷たい夜に進んで行った。ドアを半分開けて、明るい所から暗い空を見るのは、未だに、何だか少しだけ悪いことしているみたいな気分になる。僕はいつどこに行っても構わないのに。寝床を離れるのが夜だと、さも生活を手放しているようで、少し心許ないのだ。しかし、この部屋にいたところで完全な1人きりにはなれないのだという心持ちに至って、とうとういたたまれなくなった。今日は冷えているがその分空気が澄んでいて、盆地を蓋する雲もないため星がよく見える。
大学周辺には学生の住むアパートが集まる。日付の変わる頃、半分の部屋から明かりは漏れる。暗い部屋はあるが、いや、誰かに会うのに出掛けた人もいるだろう、そんな気配さえする。一種の眠らない街に僕は居る。道を行けば誰かに会うのを知っていた。今、乳白色の灯りの下ですれ違ったのは、稜線のぼやけた、誰かだった。その時、目が眩んだ。
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朝方には車の多い通りも、この時間には静かになる。とはいえ、まだハイビームを焚いた速度違反車たちが、時たま僕の視界を奪う。何も見えなくなって、聴覚と嗅覚だけが宙に浮いた。冷たい風が吹いて、触覚が、遅れて視覚が戻った。すれ違いの彼は光を背にして、静かに闇に溶けた。でも、一人にはまだなれなかった。
他人がもし一人もいなければ、僕はもっと、歌ったり、走ったり、回ったり、ふらついて転んだりしていたい。本当は、何もかもが判然としない夜道の闇ではなく、日に照らされて明るくて、何もかもが透明で、安全で、誰にも見つからない道を歩きたい。そこで大声で歌って、ダックウォークをして、電柱にキスをして、そのまま、おかしくなってしまうかもしれない。
おかしくはなりたくない。歌ったり、踊ったり、電柱にキスはしたいけれども、それでも僕はまともだと、仮に酒でへべれけになっていたとしても自分のことを信じていたい。
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すれ違う人に僕は近づきすぎず、離れすぎず、適当な距離を探す。見られすぎないように、そして見すぎないように。
僕は本当、怪しいことなどひとつもなくて、見ようが見られようが、相手に危害を与えることはない。本当は距離をとる必要はない、遠慮するこたないんだ。あるのは歌いたい衝動や走り出したい衝動であって、これを抑えるために、他人の影を限りなくぼんやりと意識のうちに収めることのできる距離を探している。そして次に、俺の、透明な道についてのまったく安全で自己中心的な衝動を発露したならば、通行人はそれをどう見るだろうかと想像する。ただ想像する。
距離を意識しなくなったらおわり。僕は一人だけ、無限の宇宙に投げ出されて、歌も歌える、喚き散らせる、おかしくなれる。僕が周りから見て安全でいるために、僕は常にそれを想像して、他人の思考とかに怯えている。ただ、僕は他人のその行為や思考を畏れているのであって、彼らが生きていることを恐れたりするのではない、むしろ愛している。
言語化や、その他の手段を以て表せるかはさておき、僕が理解しているのは僕のことだけだ。自分の先行きが分からなかったり、思い出が色褪せたりもするけれど、寝るまで、そして目覚めたその時から、僕は僕である確証を常に得ていて、この確証とともに僕は今の僕のことを何となく全体的に分かっている。
一方、当然、他人の考えや嗜好が分かるなんてことはなくて、況て過去や未来についてはもっと知りえない。一緒にいる時間だって何を考えてるかなんて分かるはずないし、でも何となく、生きていることは分かる。だからこそ、僕は僕のそれと同じ分だけ、他人の生命を愛していたいと思う。
みんながいて本当によかった。みんなのことが何となく全体的に分かっていて本当によかった。夜道に電灯があるのに安心する。部屋の明かりに助けられる。今日、月明かりがあって本当によかった。淡い灯りの降りてくる所では他人がぼんやり見える。細部を覗き込んでも何も分からないけど、みんなが生きていることだけが漠然と分かる時があって、それが嬉しい。僕はみんなの全体を愛している。僕は。
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灯りの下で俺が他人をぼんやりと見る時、同時に視線を感じる。自意識過剰とは、このような時に、自分だけが対向車のハイビームに煌々と照らされ、細部にまで及ぶ観察の視線に晒されているような、いわば幻覚にとらわれている状態をいう。自分だけ、部分に分解され、愛されることなど決してないのだと思い込む病気のことだ。
分解されると愛されなくなるのは、すべての部分、すなわち全部を部分の集合として愛すのが難しいからだ。どれだけのことを知ろうとも、パズルのピースが埋まるようにして他人の全体が見えるようになることはない。人間の身体の全体は宇宙のように果てなきものではないが、ただその細部は途方もなく嵩む。そして、砂でできた城が僕らなら、その砂は絶えず入れ替わり続けて、今この時の細部は、もはや次の瞬間に別の細部となる。それでも全体は全体として在る。全体は、単なる細部の集合体ではない。
そうして、自分のことも他人のことも、真にすべて理解できないからこそ、僕たちには想像力が備わっているはずだ。想像することと知ることとは違う。思うに、その人について知っていることを愛することは、つまり、彼女のこんな部分があるのを知っていて、それを愛すことは、知らない部分を愛さないのと同じことだ。
自分には知りえない部分は、むしろ畏怖すべきものとして、愛すべきものとは対極に置かれさえする。例えば、僕に視線をくれる眼はその人の一部であるし、彼らの尊厳とか価値とかもまた、全体を覆っているかのように見えこそすれ、部分である。部分のことを愛すのは、そんなふうにして難しい。
僕は曖昧な稜線にのみ囲まれて、区切られもしない全体を愛さなければならない。でもそれは部分を愛することよりはずっと簡単だと思う。そんなときに、想像力は役に立つから。愛することは思い込みなんだって、割り切ることは簡単だ。
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僕がいちばん恥ずかしくない、いちばん怯えていない、つまりいちばん世界を好きでいられるのは、1人で部屋にいる時だ。でもこれも絶対ではなくて、部屋にいる時でさえ他人は意識される。歌を歌えば隣から、のたうち回れば下階から、苦情が来ないことなんてないのだ。僕には僕だけの宇宙が必要になる時がある。例えば1人カラオケは小宇宙かもしれない。
部分を見るのに目を瞑って、全体どうしで愛し合えたらいいのに、と思うことがある。宇宙には外部がない。だから、宇宙には価値がない。何とも較べられる必要がない。そのように、ただたんに生きて、ただたんに生きていることだけを肯定して、無条件に他人を認められたらなんていいだろうと。言語に、表層に、部分に囚われずに、漠然と愛し合えたらいいのに。でもそれだと社会が立ち行かなくなるのも、最近また分かってきた。全員を等しく愛す人しかいなくなったら、恋愛や金儲けや、そのための戦争なんて誰もしないのだと。