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フィリピン味のヤンバーガー

 2年前の今頃はフィリピンにいた。3週間ほどの短い語学留学の、最後の週だった。

香港でデモが激化したので、慌てて直行便に変更したんだった

 初めは友人の誘いに軽く乗って、まあ短いし安いし行ってみようってなもんだったけど、かなり思い出深い旅になった。遺跡やオシャレな庭園など、有名な観光地には一通り行った。スキューバダイビングに挑戦して、ヘトヘトになって飲んだ人生初のビールがめちゃくちゃ美味しかった。日本では何となく恥ずかしくて行ったことのなかったスターバックスにも行って、マンゴーの何か(商品名は忘れた)を飲んだ。青すぎる海を見て「青すぎるだろ」と思ったり、臭すぎる道を歩いて「臭すぎるだろ」と思ったり、不味すぎるハンバーガーを食べて「不味すぎるだろ」と言ったりもした。

不味すぎるハンバーガーことヤンバーガー

 ハンバーガーと言えばマクドナルドが世界基準だと思ってる人もいるかもしれないけど、まあ実際そうかもしれないけど、もっとグローバルを叫びたいなら、ジョリビー(Jollibee)のヤンバーガー(Yumburger)をまず食べなければならない。ジョリビーは地元民には大人気、フィリピン発でアメリカにも進出しているファストフードチェーンである。ジョリビーを知ること、ヤンバーガーを食うこと、話はそこからだ。

 上の写真がヤンバーガーであるが、作為的にチーズやレタスやピクルスを抜いた後のものではない。包み紙から出てすぐの、生粋の、産まれたてヤンバーガーである。

 繰り返しになるが、ヤンバーガーははっきり言ってくそ不味い。もそもそのバンズが、█肉のパテを挟んでいる。味付けは、マヨネーズに遠からざる謎のソースのみ。何を食べているのか全く分からないのである。

 しかもこのヤンバーガー、かなり小さい。マクドナルドのハンバーガーより一回り小柄で、さらにエアー感がすごい。せっかくの現地食なので小口で食べていたつもりが、3口で平らげてしまうほど。何を食べているのか分からないうえ、何も食べていないくらい腹に来ないのである。

 ただ、そこは日本人である。金ならある。セットを注文している。
 ※イヤミではなく。おかげで優しくもしてくれるし、時に笑顔でぼったくりをかまそうともしてくれるが。

 スパゲティ。まさかのヤンバーガー+スパゲティのセット。他にどんなセットがあったかは忘れてしまったが、メニューのなかで、おそらくこのセットの写真が一番マシに見えて買ったのだろう。

 このスパゲティは極めてぬるい。ちょうど、人間がもっとも「ぬるい」と感じる温度に仕上がっている。見て、写真がもうぬるそうだもの。初めて写真から温度が伝わったと思います。黄色すぎるチーズが1本たりとも溶けちゃいない。麺は難しくても、ソースを温めておくぐらいのことはできそうだが、それもない。日本にいて忘れていたが、ぬるい食べ物が不味いということを久々に認識したのだった。

 麺はのびのびで歯に優しいし、やっぱり量が少ない。柔らかすぎてフォークですくえないので、多少の口数を要したのは、むしろ幸いだったと言うべきだろうか。
 そして極めつけはこのソースの甘いこと。トマトソースの類と思うなかれ、甘いのだ。ドジっ子シェフがお塩とお砂糖を間違えちゃったのなら許さないでもないけれど、おそらくジョリビーに”シェフ”はいない。
 一緒に行った友人と笑いながら食べきった。

 何もフィリピンやジョリビーを悪く言うつもりは毛頭ない。その証拠と言ってはなんだが、その後の滞在期間中、俺はジョリビーへもう3,4回行っている。近くにマクドナルドもあるのにもかかわらず。すっかりジョリビーファンである。セブ島各地にあるジョリビーを見かける度、このキャラクターの写真を撮った。名前はずっと知らないけど。




 セブ島は、聞いていたほど綺麗なところではなかった。至る所に悪臭が漂い、道路はガタガタ、走る車が黒い煙を巻く。あの細い犬に噛まれたら、きっと狂犬病に罹る。日本で聞いて想像した「観光地」とは正反対の様相を呈していた。痩せこけた子どもの澄んだ瞳に迫られて、楽しげなおじさんには嘘をつかれる。リュックには錠をして、常に前に抱えて歩いた。他人を疑いたくなくても、そうせざるを得ないと思っている自分がみじめだった。

 初めの1週間で、友人も俺も風邪をひいた。空気が悪かったのか、はたまた飲まないように気をつけていた水が少量でも祟ったのか、あるいは何もかもが合わなかったのかもしれない。咳が止まらなくなって、短期の語学留学なのに、授業に出られない日もあった。かなりの環境の変化に心身がついていかなかった。部屋のシャワーが弱すぎる上に冷水しか出ない。歯磨きに水道水が使えない。また、引っ込み思案が邪魔をして、先生や生徒のみんなと打ち解けられない。俺はなかなかにまいった―――。


 語学学校には、片側二車線の計四車線を隔てて向かいにある寮から、その四車線を横切って向かう。そこにいる皆がそうしていた。信号などはあってないようなものだった。道が車で渋滞しているときは渡りやすい。車の動きが遅いと、その間を縫って歩けばいいからだ。反対に、道が空いている時の方が注意して渡らなければならなかった。でなければ、容赦なく加速する車が、わざわざ信号無視して道路を横断している我々を撥ねないことなどないのだ。サンダルをカパカパ鳴らして、大急ぎで渡った。渡りきるところで、ピョンと弾んで、何が混ざっているのか分からない、泡の浮いた水たまりを避ける。

 そこは、日本とは何もかも違った。だから、俺も、少しだけ違くなった。日本での俺は、点滅している歩行者信号を走って渡らず待つし、サンダルも履かない。でもそんなの、ほんの些細な変化だった。

 ある日、友人からクラブに行こうと誘われたのを、俺は断った。何に怯えていたのか分からない。この時、「行こう」と二つ返事をしていれば俺は人生初のクラブに行っていたし、「行かんとくわ」と返事したから行かなかった(そして未だに行ったことがない)というだけのことである。行きたくない理由は明確にはなかった。強いて言えば、「行ったことがない」ことを懸念していたように思う。

 返事をした一瞬だけが分水嶺で、後のことは自然とそうなった。俺は一人になった部屋で、色々な考え事をした。友人とは相部屋だったから、沈黙は、彼が行ったクラブの喧騒を思わせて煩かった。日本ではもうずいぶん前に使われなくなったであろう古い筐体に、数日前の日本のテレビ番組を映した。後悔とそれを割り切ろうとする気持ちがせめぎ合って、寝付くころには、おおよそ前者に押しきられていた。テレビは消して、リモコンも元あった場所になおした。彼が帰ってくる前に寝ないと、後悔に飲まれてしまう気がしていた。

 思えば、他人と一緒に3週間も同じ部屋で暮らしたことはなかった。喧嘩しなかったのも、居心地が悪いと感じることがなかったのも不思議に思えた。とは言え、部屋に居てもすることがなかったから町へ繰り出すことが多かったし、家事があるわけでもなかったから、ただ寝泊りの部屋が同じというくらいで、一緒に生活しているという感覚とは違ったように思う。けれど、一人の人間を他者として、それを介して自分を定義づけするのに必要なくらいの時空を共にしていたことは確からしかった。そしてそのモチベーションは、いつも劣等感から来るのだった。

 友人はヘナタトゥー(数日で消えるタトゥー)を腕に入れて、俺はただの日焼けをした。多くの現地人の先生や邦人の生徒に器用に話しかけて(彼なりに勇気を出してのことではあるだろうけど、)語学学校に馴染んでいく彼の陰で、俺は何となくぼんやり過ごし、やっぱり一人だった。

 せっかく異国の地にあって、人は開放的にもなれるというのに、俺がクラブもヘナタトゥーも体験しなかったことは、「何事も経験」論者からは、愚か者との誹りを免れないだろう。このように味気ない人生を送ってきて、これからもなにも経験しないまま退屈に死んでいくのだという風に思われることだろう。実際、自分でもそう思うことがある。

 過去、思い返せば、「人生における大切な経験」を通過できるタイミングを迎えたことは幾度となくあった。しかしそれを拒んできたことも同数とはいかなくても、数多挙げられる。
「過去を引きずりすぎ」「負のスパイラルだよ」「今から変わればいい」と、どれも同じ感情に、異なる様々な言い方を嵌めてこられるとそれ以上太刀打ちはできないのだけれど、これまで経験をしてこなかった俺は、今この時の経験を肯定するのがちょっぴり苦手だということを知ってほしい。そして、そのようにして経験をちょっぴり拒んでいるまさに今、俺が未来を希望を見出すことの難しさは語るに忍びない。想像して、哀れんでくれれば御の字というところだろう。

 「何事も経験」論者と少し悪口めかして書いたが、そういう人たちは何も間違っていないと思うし、この言い方を避ければ、ほとんどの人は経験を重んじていて、それゆえ豊かな生活を送っていることと想像できる。それでもなお言わせてもらえるならば、未来と同じくらい大切にしたい過去を、一掘り起こしても宝に当たらない、履歴書に書くことの無いようなつまらない、人に言わせれば薄っぺらな、でも、俺だけのガラクタだらけの愛おしい過去を一俺がこれまで生きとし生きてきたという唯一の証拠を自ら否定する苦しみを彼らは知らないのだと思う。…ということにさせてください。俺はこのまま死んでしまうかもしれないので、その時に後悔しないように。

などと長ったらしい言い訳を述べ立てて、俺は変化しなかったことを恥ずかしげもなく告白した。経験を拒み、変化を嫌うのが俺の最もいけないところだ。




 結局、3週間の滞在で、俺はずっと苦しかった。もちろん、異文化に触れる新鮮な気持ちは、疑いようもなく楽しかった。しかしこれだけの短期間では、若干の潔癖症を克服することも、人見知りを解消することも、親友に対する劣等感を払拭することもなく、楽しい時間と苦しい時間は常に並行した。

 そんな中でジョリビーに行くと、色々なことを忘れて、また色々なことを思い出すことができた。店内は明るく照らされ、道の臭いも漂ってこなかった。比較的清潔で、やたら明るいところ。こういうところがいつも俺には必要だった。マクドナルドよりもジョリビーを選んだのは、やっぱり少しフィリピンを感じたくて、そして、いつものじゃないのが、ここでは食べたかった。小さくて不味いヤンバーガーがフィリピンらしかった。スタバに入ったのも、サンダルを履いたのも、ちっぽけで薄っぺらな変化だけど、俺は、新しい俺にはなれなかったけど、少しずつより良い俺に向かっていることだけは確かだと、そう思っていたかった。



 フィリピンを離れる前に、フィリピンと日本の自殺率について調べた。差は調べる前から歴然としていた。みんなが幸せとは限らないが、フィリピンは生きていた。食べ物が不味くても、水が汚くても、みんな生きとし生きていた。

 なぜかは分からないが、俺はフィリピンの人々から生きようとする意志を感じ取っていた。仕事中に歌を歌う警備員や、世間話が止まらない露店の店員、俺のリュックサックを狙う少年、道行く全ての人に、生きる意志があるように思えた。この感受が俺の人生を変えたかは分からない。実際何度か消えたくもなっているし。でも、時たまフィリピンについて思い出せることが、常に俺の心の支えになっている。「生」や「生活」への執着が。

 少し時間を置いて、学校のプログラムで行った1週間のオーストラリア研修の後で、参加者の同級生らは口々にこう言った。

「将来の夢が見つかりました」
「人生が変わりました」

 そんなわけないと思った。シドニーの都会を5,6人の班で練り歩き、観光のために揺れの少ない二階建ての電車に乗って東西しただけの7日間そこらの研修で、何が変わるのだと思った。何も変わるもんか。3週間のフィリピンで俺は風邪をひいて、それで何も変わらなかったんだ。潔癖症のままだ。人見知りのままだ。どうしてくれるんだ俺の計4週間を。何だって言うんだ俺の人生を。

 もちろん、3,4週間の滞在で大口叩くのもみっともない。その程度でその国を知った気になる方がおかしい。俺はフィリピンの飯が不味いことを知った気になっているが、それも一部だけかもしれない。人々が生き生きしているように感じたのも、俺の希望的な思い込みかもしれない。オーストラリアで何も知り得なかったのも、オーストラリアのごく一部しか見ることができなかったからだ。
 だから、俺は反省の意を込めて、こう発表した。

「何も見つからなかったし、何も変わらなかったので、またどこか外国に行きたいと思います。今度はもう少し長く居られたらいいなと思います」

 オーストラリア研修、成果発表の場で、俺は全く成果を上げられなかったことを恥ずかしげもなく告げた。班員にはどつかれ、他の大勢には白い目で見られた。その目は「ホントのこと言うなよ」と言っているようにも見えて、みんなは楽しい雰囲気を悪くしないように建前を言ったのかも、と思った。空気を読めない奴になってしまった感もあるが、何回言い直しても嘘はつけなかったと思う。

 結局、疫禍の状況や金銭的な限界から、再び海外に足を向けられてはいない。また、もともとグローバル志向がある人間でもない。日本の食事が好きだし、日本の文化が好きだ。この状況が変わって、次に海外に行く時も、長い旅にならないだろうと思う。でもその時に、ただ街並みを見るばかりではなく(それで人生など変わるはずないし)、少しでも長く多くその国の人のことを見つめることをしたいなと思う。

 フィリピン・セブには確実に生活があった。言葉で表わすことの出来ない、「生」の実感…そんな感覚があった。街は活気と臭気に溢れていて、文字通り刺激的だった。食べ物はおしなべて不味かった。不味いことに慣れることもなく、最後まで不味いなあと言いながらだったけど、俺はフィリピン味のヤンバーガーが大好きだった。

 人間には何よりも大事なものがあって、それを忘れてはいけない。

 俺が見たフィリピンには細い犬がいて、歌う人々がいて、ジョリビーがある。途中で切れた電線がガス臭い道路脇を塞いでいても、ジョリビーは途切れず煌々と光を放ち続けていた。

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