野焼きの煙は許せないでも
僕のとこは田舎だから、夕方など、時おり野焼きの煙が上がる。風が煙を拡散させて、町は見えない粒子に満たされる。粒子が元々何であったかは分からないけれど、何であっても煙は芳しいものではない。マスクをしていても鼻腔を突くし、正直言って、本当に嫌いだ。避けようがないし、大声で喚き散らしたとて誰かが助けてくれるわけでもない。だからって田舎のことが嫌いかって言うとそうではないし、野焼きをしている人を咎めたいって話でもない。
少し前のこと、小さな川に沿う土手の中ほどに、野焼きの煙の上がるのを見た。歩いて過ぎるまでの間、煙とその傍を蠢く人影を眺めていたが、またも何を燃やしているのか分からなかった。
この人はきっと、日常的に何かを燃やしている。それがこの人の暮らしであって、僕はこれさえ愛していられればいいと思った。
愛すと言って、見知らぬ人だけをって意味じゃなくて、どれだけ煙が憎くても、もっとその前に生活があることさえ分かっていれば大丈夫という意味で、僕にはずっと、そういう確信がある。そして、僕の見ないところで生活は変わっていくこともいつか終わることも知って、なお愛していなければならないと思う。
人を愛すのは、行為を許すのとは違う。野焼きしていることは全然許したくなくて、できればやめてほしい。これが難しいところだけど、それでも愛している。その人がそれをやる理由を持っているからではない。理由を持つに至った全ての過去と、今を愛している。これはこの人に限らず。
愛という言葉を軽々しく使いすぎていると思われるかもしれないけど、他にいい言葉が当てはまらない、これは僕の中で最も崇い感情だから。