ナポリタンの本音 【連載小説】 第8話
第8話
「とにかく落ち着いて来なさい。
慌てなくていいから」
それは保が自分に言い聞かせた言葉でもある。浩平たちを不安にさせまいと精一杯冷静な声で電話をしたが、内心は不安と緊張でいっぱいだった。
ほんの小一時間前まで元気だった晴子が、今は生死を彷徨っている 。どうしても現実として受け入れられない、受け入れたくない。自分の人生から晴子がいなくなるのが考えられないのだ。
保は物心付いた頃から父親がおらず、母一人子一人の母子家庭で育つ。大学進学を希望していたが、朝から晩まで働き詰めの母親に、どうしても本音が言えなかった。担任教師も成績優秀な保に「なんとか進学を」と奮闘してくれたが、結局断った。
高校卒業と同時に寮のある老舗の有名うどん屋に就職し、一から修業を始める。仕事で忙しい母親に代わり食事を作ることが多く、いつしか料理が好きになっていた。
どうせ働くなら手に職を付けたい 。そんな思いもあった。もともと器用で筋も良く、経営者である「おやっさん」にも気に入られていた。
その店では何年か修業を積み、おやっさんに認められると暖簾分け(のれんわけ)が許される。それを目標に保も頑張っていたが、ある事情から夢半ばで終わってしまった。
晴子と出会ったのは、そんな頃だった。
もうすぐ、あの子たちが来る 。保は、なんとか気持ちを落ち着かせようとしていた。
救急搬入口のすぐそばに救急処置室がある。処置室前の広めに設けられた廊下には壁添いにベンチが数台置かれ、そこが患者の家族の待合になっていた。
保が来る前から隣のベンチには、50代位の男性が一人でいる。看護師との会話から、患者は男性の母親のようだ。随分長い時間、保は彼と同じ空気を感じているような気がしていた。
「お父さん……」
有紀と浩平が到着した。保を挟むように二人はベンチに腰を下ろす。
電話の時とは少し印象が違う保のことが、浩平は気になった。そんな保は今まで見たことがなかった。
「おばあさんは一緒じゃないのか?」
喜美を心配した保が有紀に聞いた。
「うん。だいぶ元気になったけど……店で待つって」
「一人でいるのかい?」
「ミーちゃんが、今、店に向かってくれてる」
「あぁ、それなら安心だな」
保の言葉に、浩平は得意気な気持ちになった。
「母さんは……まだ?」
声を抑えて浩平が聞いた。
「あぁ、ずっと入ったままだ」
その会話を最後に、三人はただひたすら時間が過ぎるのを待っていた。
しばらくすると、隣のベンチの男性の妻と見られる女性がやって来た。
「遅かったな……」
女性の到着が遅いことに、男性は不服そうだ。
「あぁ……。
駅前でちょうどタクシー乗ろうとしたら、すごい急いでる女の子が来たから、順番代わってあげたのよ」
いい事したでしょ?と言わんばかりに女性が答える。S駅前のタクシー乗り場で実乃梨に順番を譲ったのは、この女性だった。
「お前だって、急いでるだろ!?」
男性が少し声を荒立てた。
「いいじゃない……別に。
お義母さん、もう歳なんだし、そんなに慌てなくたって」
「…………」
男性は怒りの感情を必死に抑えようとしていた。
病院の中で、患者の家族は切羽詰まった状況になりやすい。「家族」の表向きの看板が外され、普段は人目に晒されることのない内情が垣間見える時がある。
具体的な理由は不明だが、嫁姑関係が良好でないことは誰の目にも明らかだった。
そんな男性と女性の会話を、三人はひたすら聞き流すことに務めていた。
突然、救急処置室のスライドドアが開いた。看護師数名がキャスター付きベッドを運び出す。ベッドに横たわる患者の髪が白髪に覆われていたので、晴子でないことはすぐに分かった。男性の母親だった。
「あぁ……あぁ……。
お義母さん……」
その場で泣き崩れたのは、さっきまで悪態をついていた女性の方だった。
「……え?」
有紀と浩平は、きょとんとした顔をしている。保は両手で口元を覆い、表情を隠そうとしていた。
強い存在であった姑の弱い姿を見て、急に悲しくなったのだろうか。今までの恨みつらみは、一瞬で何処かへ飛んで行ったのだろうか。
女性は男性に体を支えられながら、看護師と共にベッドの後に続いて行った。
その後、また救急処置室のスライドドアが開いた。
「佐藤晴子さんのご家族ですね?」
看護師の女性が保の方にやって来た。
「はい、そうです」
「えーっと、こちらは?」
新たに加わった有紀と浩平に、晴子との関係性を尋ねてくる。
「娘と息子です」
即座に浩平が答えた。
「先生からお話がありますので、どうぞこちらへ」
「……はい」
凍り付いた表情で保が返事をした。有紀と浩平が保の顔を見るが、保は二人と目を合わせようとせずに看護師の後に続く。三人が救急処置室に入りドアが閉められた。
誰もいなくなった待合は、何事もなかったかのように静まり返っていた。