芸術に触れるということ
本を読む、映画を観る、美術・写真展へ行って作品を鑑賞する、ということが好きです。音楽を聴いたり演奏したりライブに行ったりということとはまた違って、ずっとしていたいことのひとつ。
先日、落合陽一氏の『未知への追憶』に足を運んだ。ある訪問先と家の間に渋谷があり、渋谷に降り立った瞬間、そういえば、と思い出して訪れた。大概はSNSの情報を家で見て、行くぞ、と決めて行くので、こういったパターンは少し珍しい。そして、別の日に『永遠のソール・ライター』にも伺った。こちらはもとから行きたかったけど世間を騒がせている"アレ"によって一時閉館となり、アンコール展示が開催されているのを9月に入ってようやく知ってすぐに行った。
文学にせよ、視覚的な芸術にせよ、それは誰かが表現しているものを自分のフィルターを通して見るという行為で、そこには"想像力"というものが欠かせない。想像力が乏しければ、目の前にある何かにピントを合わせられず、ピントを動かすこともできず、またピントを合わせる工夫を楽しむこともできない。そして想像力と同時に知力を育てることも大切である。ピントが合っても映っているものが何かを理解できなければ、それを深く楽しむことは難しい。悲しきかな、自分の知力は未だ未熟であるし、想像力はおとろえていくばかりである。
自分の頭の中では、自分のフィルターにその目の前にある芸術作品が網膜を通ってきた情報として処理されることを何度も繰り返す。はたから見れば思考停止して立ち止まっている人。たまに近づいたり遠くから見てみたり、フィルターを通して見たものを再度想像して見たり、落合さんの言う「切り取られた風景」を上から下から右から左から、脳内で見てみるということをしている。これは対話だと思う。そこに本人はいないのに、作品を通してその人が見ているものをどうにかこうにか見に行こうとする。たとえ、作者が生きていたとしても死んでいたとしても、生身の経験に近づこうとするのである。ある種の、タイムトラベルかもしれない。
これは非言語の対話であるので、基本的には言葉で簡単に表現することが難しい。何周もしてようやっと絞り出した言葉が、それを適切に表していなかった、ということは往々にしてある。脳内の解像度が高い人は言語化能力に人一倍気を使わなければ共有・共感に難題を抱えるものなのだろうなあと他人事として思っている。(正当化するつもりはないが、間違いなく自分自身は言語化が苦手である。故に話す・書くペースが遅いし、まわりくどさはピカイチ)
それでも、芸術に触れるということは豊かな経験であると感じているし、"タイムトラベル"をすることで、自分ではない誰かの経験を自分の中にも取り入れられる。自分がもっと広がっていくようで、楽しさを覚えずにはいられないのだ。物質と騒音と電波とその他なんだかんだにまみれたこの大都会から意識の離脱を図ることに、一種の涅槃を見ているのかもしれない。その隙間を縫うような落合さんの作品には、現実と精神(あるいは空想)の間の、知覚できそうでできない次元の何かにかすれるような気がしてワクワクしてしまう。
こうやってグダグダと中二病的脳内を垂れ流すことに恥ずかしさを覚えなくもないが、それはそれで自身の抗いようのない醜くも美しくある(あってほしい)美的感覚を、牙をとぐが如く存えさせることには必要であるのだろうなァ、と思いながら、締りのない文章を一度終えるとします。こういうのは、たまに吐き出して恥ずかしくなったら引っ込めるぐらいでちょうどいいのでしょう。