見出し画像

ひとりで描く画とその世界

目の前の映像の中で動いているのに、この人はもうこの世にいないのだ、という現実をようやく理解した。精神をぶち壊しながら音楽から離れていた日々を埋めるかのように、何度も何度もその歌を、曲を、聴きながら、今になって唐突な悲しみを思い出していた。

春の真っ只中にそれなりの衝撃を受けて、それでもただの事象として捉えていたその人の訃報が、ようやく事実として認識できたのは2年を経た2021年だった。新しく歩き出したメンバーが発表した楽曲たちを何度も何度も聴いて、その人がいなくなったステージを見てどうしようもなく、理解するしかなかった。もう過去には戻れないし、こうして進んでいくしかない。喪失感は多分10年、20年経って薄れることはあっても消えることはない。ただ、いなくなってから2年を経たときに、こうも鮮明に画として突きつけられて理解せざるを得ない状況となったのは、その喪失感を濃くハッキリと理解するには十分だった。

音のなかに残像を見ているような感覚が、その場から意識を持ち去るように自分の目を閉じさせる。じわじわとまぶたの裏が濡れていくのを感じながらその残像を捉えようとしても、まるで波が引くような掴みどころのなさを覚える。目を開けてその先を見ると、あまりにもキラキラしていて眩しさを覚えると同時に、一音一音真剣に鳴らすバンドメンバーがたしかにそこにいるのだ。それが現実で、悲しみも喪失感もすべてひっくるめてここに在るのだと思い知った。

リーダー、あなたがひとりで描いていた画が、いつの間にかたくさんの人の手に渡って、その世界を広げて、今もなお在り続けている。そして素晴らしいことに、あなたが落としてしまった筆をまた拾い上げて、途切れてしまった世界の先を見ようとしている人たちがいる。落ちた筆も途切れた世界も、それがそのままの姿だと、ひとつの芸術だと、そういってそのままにしておくこともできたかもしれない。でもあなたをそこに置いていくわけにはいかなかったんだと思う。そうやって繋がっていった新しい世界を見ることができているのは、幸せなことだ。そう思えるだけで、今は十分だろう。


夏が始まったころにヒトリエのライブを観てこの文章を書きなぐったのだけど、整理がつかずこんな時期になってしまった。レポでもなんでもない頭の中のポエムなんだけど、なんとなく、供養として投稿します。

これからもヒトリエを応援しています。

いいなと思ったら応援しよう!