絶望の淵から、お気楽仙人を目指す〜ぎっくり腰かと思ったら難病だった〜
ぎっくり腰になった。
30歳で、人生初めてのぎっくり腰だ。
手帳を見ると2022年11月5日、冬がじわじわ押し寄せて来ている頃。
実家で初めての子犬を迎えて、犬のうんちを中腰で拾ってたりしたら、なった。
それまではぎっくり腰って、カクッとして
「あ、腰に力が入らぬ……」ってなるものだと思っていたが、そんな優しいもんじゃない。
腰から足先まで、脚がネジ切れるんじゃないかっていう壮絶な痛みが、稲妻のようにヅゥウウン!と走り続けるのだ。
「痛ってぇえええええ!」とかも言えない。
セリフをあえて付けるなら、息を呑んで「ひぎぃ……ッ!!」って感じだ。
ぎっくり腰、英語で言うと「witch’s shot」。
魔女の一撃どころじゃないよ、バズーカだよ。
近所の整骨院に通って治療していたが、1ヶ月後に再発、治療。再発、治療。治らん。
その後もずーっと痛い。
冬だから?運動不足?筋トレしろ?
してるんだよ、痛いけど。
何をしても、半年経っても痛かった。
具体的にどれくらい痛いかというと、歩けない。
家の中を移動するのが精一杯で、子犬のお散歩デビューにもついて行けなかった。悲しき人生。
これは、ただのぎっくり腰だと思ってたら難病だったことを知る
気持ちが落ち込みやすい新人漫画家の記録です。
「さすがに、おかしいのでは?」 半年経ってもまともに歩けない
整骨院の先生に整形外科を教えてもらって、行ってきた。
待ち時間長かったなぁ……。股関節の可動域を見るために、仰向けになってうつ伏せになって、
あっちゃこっちゃ足をいろんな方向に動かされて激痛が走る。
「何かを知ることは、同時に痛みを伴うのだ……」
かっこいい感じに自分を誤魔化しながら、耐えていた。この時、市販の痛み止めを毎日のように飲んでいて、それでも効いていなかったのだ。
激痛の海に腰浸かりっぱなし、どんぶらこどんぶらこ。
死ぬ気の股関節レントゲン写真を撮影し終わり、診察室。
「う~ん、どうしようかなぁ……」と先生。
どうもこうもありゃしませんよ、痛いんですよ。と心の中で突っ込んだ。
「バンブースパイン(竹状脊椎)って言ってね、珍しいです。」
??? 何それ、必殺技です?
「ほほう?(詳しく)」
「脊椎の周りにカルシウムが付着して、竹の節みたいになってるんです」
「はー!」
「これは、もっと大きな病院でちゃんと調べてもらった方がいいね」
「へぇえ!!」
思っても見ない方向に話が飛んで、逆にテンションが上がる。新人漫画家なんて、こんなもんです。漫画で描けばいいじゃない?
はい、漫画も描いてます。
その後、大学病院で上から下から血液まで根掘り葉掘り調べてもらった。
やっと結果が出たのが半月後、2023年9月28日。
ぎっくり腰をしてもうちょっとで一年って時に、原因がわかりました。
『強直性脊椎炎』
なんだか強そう。
スパッと炎の刀とか放つ技みたい。
また無駄なものを切ってしまった。
強直性脊椎炎は、全国では約4000人しか症例のない難病です。
簡単にいうと、自分の免疫が大暴走して、脊椎・腰の仙腸関節などに常に炎症が起こり強い痛みがある。炎症がおさまると、痛みから置き換わるようにカルシウムが関節に付着して、だんだん硬く固まり動けなくなっていく病気です。
男女比は3対1で、男性に多い病気です。
私、一応女性なんですけどね。
まあとにかく原因不明の未知の病気がぎっくり腰を発端にして、約一年間歩けないほどの痛みを生み続けていたんです。炎症くんも燃え続けて忙しかったことだろう、お疲れさま。
「もっと早く来ればよかったね」 親の落胆と自分への失望
このことを振り返るたびに、最初の整形外科へ一緒に行ってくれた母を思い出す。
「もっと早く来ればよかったね」
母の残念そうな顔ったらない。ああごめんね……となったもの。
私は実家を出たことがない。ぎっくり腰をした2022年まで、末期の胆管癌だった父の介助手伝いをしていた。父は2022年の6月に亡くなった。
その前の年には、同居していた大好きな祖父が亡くなった。中学の頃は祖母が肺癌で亡くなった。
母はずっと介護介護の人生で、祖父母と父の重荷がやっと終わったと思った。
なのに次は娘の私が難病だ。
これから先、母が自分を大切にした、ちゃんと自分らしい人生を送れる。
そう家族の誰もが思っていたのに。
子犬だって、母のために兄妹みんなで相談して飼うことを決めたのに。
家に帰ると、気丈な妹が言った。
「母は『また介護せなならんのやな』
って言っていた」
そこで私の「何それ面白そうやんスイッチ」は、切れた。
一日泣きじゃくった。
文字通り一日。朝から晩まで。
途中、ショッピングモールに買い物に行っても、母と妹が仲良く眼鏡屋を見ているところに、入っていけなかった。
「もともと私は、兄妹の中でも一番厄介で落ちこぼれで、欠陥品じゃあないか」
「漫画だって、まだ新人の枠から出られていない。自分で自分のことを支えることもできないのに、そのうえ難病だなんて」
「存在が迷惑なら、生まれない方がよかった」
どの景色を見ても、滲んでいく。景色が大粒になって、こぼれていく。さようなら、さようなら。
《……だからって、死んでも楽になるとは限らんよ???》
突然、心の中の仙人が言った。
仙人?誰よ、お前さん?
でも、確かにそうだ。じゃあどうしようか?
とにかく私は、調べまくった。
理解が及ばなくても、医学用語が呪文でも、調べまくった。ネットで調べて、本を読み、何言ってるかわからんけど実験医学も読んだ。
そして結論がついに出た。
「やっぱわからん!!」
さすが難病と名前がついているだけある。本当にわからなかった。
強いて言うなら、珍しい白血球の型があって、それが原因なんじゃね?ってことくらい。血液型占いの方がまだ詳しい。
ちなみに明確な治療法は、無い。
治らない病気が「難病」なのだ、ということも知った。世界にはまだまだ知らないことが沢山あるなぁ……。
そんなことをしていると、気丈な妹が申し訳なさそうに言ってきた。
「この間は私が悪かったわ……
ちゃんと最後まで伝えてなかったから。
それでも母は、姉のことをちゃんと愛してるし
大切なんやで」
それ、大事なやつだよ。
早く言ってよ。
……やっと少し、自分を許せたよ。
私と母は、介護とその手伝いで、ずっと一緒に頑張ってきた。
もちろん、私ができたことって少ないけど、どちらか独りっきりで父や祖父の介護をしているよりかは、マシだったと思いたい。
それなりに絆ができていたはずだと、思いたかったのかもしれない。
私は人より落ち込みやすい。少しのことで、すぐに絶望の淵の際っきわまで行く。
でもこれから先は、できるだけニュートラルに物事を見ようと心に決めた。
決めたと言うことも忘れるけど。まあ、人間だからしゃーないさ。
《だからって、死んでも楽になるとは限らんよ???》
仙人よ、私の中の謎の仙人よ。
あなたは幾度も私の人生を達観し、水に流し、
そのせせらぎの横でぷかぷかと浮いていた。
私もできれば、絶望の淵なんか「ああなんか見たことあるよ。なかなか壮観だよね、あの世界遺産」くらいにしてみたい。
漫画を描いている。描いたりやめたりを繰り返している。
私は人より落ち込みやすい。自己肯定感って何それ美味しいの?なところも多々ある。
生きるのって難しい。
《だからって、死んでも楽になるとは限らんよ???》
ハテナの数は首の傾け具合と比例する、ちょっとムカつく仙人よ。
20代後半から臨床心理学に興味を抱き、自分の心身で実験を続けている。
よく聞くストレスケアとかも含めている。
科学的に根拠のあるものを好んで調べ、実践を続けていた。
そりゃあ、ちょっとしたことで落ち込みます。
泣きじゃくります。
こちらが心の世界遺産「絶望の淵」です。
うわー暗い、ねー深いでしょ?
どこまであるんでしょうね?
でもそれを作ってるのも、自分の心の風景。
その時、仙人はどこにいるの?
仙人よ、私の心の中にいる謎の仙人よ。今こそ姿を現したまえ。
原因不明の難病でこの先10年は毎日、体が痛い人生です。ストレスを自分の体で生産しています。自給自足。地産地消。
だからこそ見えるものとか、こうした方が楽しいんじゃない?とか発見することってあると思うのです。
これを書き始めたのは2024年6月。
ぎっくり腰から1年8ヶ月。病名がついて9ヶ月。
うーん中途半端。でも少し心が楽になってきた。
こんな奴でも、それなりにお気楽が身についてきました。そんな記録です。
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