普通のふりして生きてきた~ちょっと病気がちな奴が健康なふりをしている回想録⑭~
~前回のあらすじ~
面白おかしい検査入院の後、手術もすることになった。
2012年とか、そこらへん
違うかも。もしかしたら、13年か14年だったかもしれない。とにかくそのへんで私は手術を受ける事になった。
左の副腎が、もはや腫瘍にとりこまれて肥大化していたので、手術で摘出する事になった。
えっ、内視鏡でやるって聞いてたんですけど!?
検査入院の段階では内視鏡手術だと確かに聞いていたが、いざ手術前に担当医から説明を受けると、腹をざっくり掻っ捌く手術だった。
「こんなに大きいのに内視鏡でなんてできないよ」と笑って言われた事を覚えている。いやアンタ。ちょっと待て。
それより、私に内視鏡手術の希望を持たせた医師はどこのどいつだ。一発殴らせろ。
まあ、そうなるのなら仕方がない。それならそれで覚悟を決めるだけだ。私は各種書類にサインして先生に命を預けるだけだ。
30年前だったら死んでる病気って言われたからね。生きれるなら文句は言わん。腹の傷と付き合っていく人生も、だいぶ大きめの帝王切開だとでも思えば楽なもんよ。(出てくるのは臓器と腫瘍だけど)
私はその日まで毎晩、ひっそりと自分の傷の無い白いお腹に別れを告げた。
手術当日は母と姉が付き添った。そういえば今考えると、父来なかったな。仕事だったのかなんか知らんけど、二人付き添ってるなら大丈夫とでも思ったんだろう。私の父はそういうやつである。そういうのを口で言わないから、うちの家庭は円満に崩壊した。
手術時間までに色々な準備を済ませる。人生初浣腸、からの下痢。人生初のT字帯。T字帯は母に装着を教えてもらってから自分で付けた。またつける事があった時のために思い出しておかなければ、と日々思っている。
手術までの時間で一番気合を入れたのは、手術室に向かう時だった。
ドラマで見る、ストレッチャーに乗せられたまま手術室に向かう患者と違って、私は看護師さんに付き添われて自分の脚で元気に手術室に入り、自分で不織布の帽子をかぶって髪の毛をまとめ、自分で手術台に上った。処刑台に上がる罪人の様な心地だった。
最初に背中に麻酔を打たれ、次の硬膜外麻酔ですぐに眠った。手術は6時間に及んだらしい。
次に目を覚ました時、私の目と鼻の堤防が決壊した。悲しくも痛くもないのに不思議と涙が流れる。ICUに移されるまでの廊下で、看護師さんか誰かが涙を拭ってくれていた。その一方で、それまでつけていた酸素マスクが「酸素良好だから、マスクいらないねー」という軽い声と共に外された。
手術が無事終了の報せを受けてICUに入ってきた母と姉には、本心8割、心配かけまいという思い2割で「お腹空いた」という一言と話した。二人共なんか呆れた感じで笑っていたが、その方が二人共心配しないでしょ? と手術直後にも関わらず考えていた私は、本当にいい娘である。あとお腹本当に減ったし。おにぎりを下さい。
ICUに入ってる間の事はもうほぼほぼ覚えていないんだけど、夜に麻酔が切れてから、手術痕がめちゃめちゃ痛くってナースコール連打したのは覚えてる。冗談抜きで一晩中眠れなかった。
暇つぶしに羊を数える長い夜が明けて、ようやく病棟に移される事になった。なんか色々な機械を付けてベッドごと移動してもらってる間、私は「これを手術前にして欲しかった」と考えていた。動ける患者であっても病室で眠らせてくれよ、頼むから。自分で手術台に上る恐怖、一生忘れん。
当然だけど、寝ていてお腹に力が入らない。それどころか、寝ている間姿勢がちょっとでも曲がっていたら、その後激痛に見舞われるので、姿勢を崩っさないように寝ているのが地味に大変だった。
何日かして待望の食事解禁になった。
看護師さん「おめでとうございます。待望のご飯ですよ~」
私「やったぁ~! ご飯なんだろう、わくわく」
グラタンとパンだった。
えっ、うっっそだろ。いきなりこれってお腹びっくりするんじゃない?
かなりゆっくり時間をかけて食べましたが、パンは食べられませんでした。
正直マカロニも喉を通るのかやっとだったよ。
神からの投げ銭受け付けてます。主に私の治療費や本を買うお金、あと納豆を買うお金に変わります。