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何も覚えていなくても

何もかもがはじめての体験だった。できることをすべてやっても他人でしかなくて、ただ無力感に苛まれた。この世に命を生み出すことの壮絶さと向き合い、代わってあげられないことへの罪悪感も抱えながら、僕は出産という奇跡にやっとの思いで立ち会った。


2022年の11月末、奥さんが妊娠していることがわかった。忙しい平日の朝の時間、トイレから出てきた奥さんが「なんか、妊娠したかも」と一言。あまりに唐突だったから少し時間が止まったけど、ふたりともこらえきれず笑った。驚きと嬉しさが混ざった幸せな笑いだった。

仕事帰りの夜道、星空を見上げながら、この日のことを、この気持ちを忘れないでいようと思った。いつの日か思い出せるように、子どもに聞かせられるように、忘れたくないと思った。つめたく乾いた空気の澄んだ匂いが、身体にしみわたっていくような夜だった。

そこから、僕の生活は一変した。仕事や趣味にかける時間をできる限り削って、奥さん中心の生活にシフトさせた。身勝手な決断でたくさんの人に迷惑をかけた。申し訳なかったと思う。でも、おかげで出産までのふたりの時間をとても大切に過ごすことができたから、周りの人にはすごく感謝している。

妊娠のアプリもダウンロードした。増えていく週数や豆知識を確認するのは楽しかったし、父親としての自覚が芽生えることを手伝ってくれたとも思う。記念日がやってくるたび、奥さんに感謝の気持ちを伝えるようにした。1日1日を噛みしめようと思った。

何か不安なことがあると、やめればいいのに、ふたりでインターネットの記事や動画に頼った。最悪の状況ばかりがちらついて、平常心でいられないこともあった。健診のたびに無事がわかって落ち着いた。でもおそらく、僕が抱えていた不安は奥さんが抱えていた不安には到底及ばないのだろう。自分の身体のなかにもうひとつ命を抱えているというのは、きっとそれだけ大きな違いを生むものだ。

人の優しさや社会の厳しさにも触れた。電車で席を譲ってもらえるということがこんなに嬉しいものだとも、満員電車で立っているのが苦痛じゃないときがあることも知らなかった。同時に、「電車で1席も空いていないこと」がこれまで以上にきつかった。1席だけ空いていればよかった。

僕は怖いものがなくなった。まだ産まれていないのに、「この子を守るためなら自分の命を捨てられる」という感覚が芽生えていることに驚いた。すでに別人だった。

時間はゆるやかに流れた。少し遠出したり、パパママ講座に行ったり、おそらく最後になるであろう、奥さんとのゆったりとした時間を十分に過ごすことができた。ただ、ふたりはいつでも3人で、「子どもが産まれたら……」の話が常に一緒だった。


いま、ようやく寝てくれた息子を腕に抱えながら、この間のことをすでに懐かしく思い出す。1か月前に産まれたこの子は、早くも少し重たい。

当然だけど、僕たちふたりが向き合ってきた日々のことをこの子は知らない。それどころか、いま泣き叫んで寝起きの僕が必死で寝かしつけたことすら、すぐに忘れてしまうだろう。口を半開きにして抱かれている姿を見れば容易に想像ができる。

それでもいい。キミが覚えていられるようになるまで、代わりに僕が覚えているから。いつか大きくなったら、じっくり話してあげよう。キミがやってくるまでのこと、お腹にいたときのこと、産まれたときのこと、大きくなるまでのこと。照れてふざけてしまうかもしれないけどね。

何も覚えていなくても、僕は今日も大暴れのキミを寝かしつける。

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