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[小説]病院の待ち時間と、公園を占領した話

病院の待ち時間と、公園を占領した話
                                 辺々 モノ草

 自転車に乗って、お気に入りの皮膚科へ行った。両頬にあるにきびを治療する為である。これとはもう何年間も一進一退の攻防を繰り広げてきたが、一向に戦いが終わる気配はない。数年前、にきびとの戦争を始める際に、軍事顧問、つまり担当の先生から「にきび治療は数年間かかるから覚悟が必要だ」みたいなことを言われていたが、全くもってその通りである。先生の見立ては正しかった。先生は預言者であろうか。
 建前上の敵はにきびである。が、真の敵は自分自身である、と中堅兵士の私は頬に幾つものクレーターを作った後、雄弁に語る。言い換えると、薬を飲み忘れたり塗り忘れたりすると、目も当てられない程の大惨事が起こるということである。睡魔と塗り薬を塗る面倒くささに敗北した途端に、戦況は悪化した。「一進一退の攻防」などと書いたが、実質的にその攻防戦を招いているのは、『怠惰な自分』と、『頬全体に広がった戦線と手遅れの跡(クレーター)を見て、慌てて薬を塗りたくる自分』、この両者である。私の中には沢山の私がいる。彼らは相互に、利益をもたらしたり、もたらさなかったりしていた。

 さてまあ、今日も良いお日柄である。それも三月上旬の平日の午前。空気は朝と比べるとずっと和やかだった。一か月前は手を出すことすら憚れる極寒の中にいたと思うと、今こうして、手を陽光のもとにかざして日向ぼっこが出来ること、それ自体に幸せを見出せる気がした。途中通りかかった小学校では、体育館からぞろぞろと、生意気そうにキャッキャと笑う小学生達が出てきていて、恐らく卒業式の練習でもしていたのであろう。換気用の小窓から、薄暗い体育館内部にパイプ椅子達が息を潜めて整列しているのが見えた。ふと、あの頃の友人を思い出す。もう顔もおぼろげである。今の自分には、小学生当時の頃からの付き合いの友人が一人もいない。そう気づくと何故か胸が締め付けられた。ああもう、思い出したくないことまで思い出してしまった。だから小学生は嫌いなのだ、彼らに罪は無いが。しかしまあ小学校の記憶は碌なものがない。恥を作りすぎた。

 そんな呑気なことを考えていたからか、はたまた小学生を「生意気」と言ったことに対する天罰か、先生のクリニックに着く頃には、既にクリニックは満杯であった。この数年間の通院において、毎回二十分以上待った。待たない日は無かった。尊敬する先生のクリニックが儲かること、それ自体は喜ばしい事なのだが、如何せん待ち時間が長い。そんなわけだから、混雑することを見越し私は、針路が決定していて尚且つ卒業式を終えた高校生という、暇人の代表格のような身分を最大限活用して、人が少なそうな平日の午前という時間を選択した。
   結果はどうだ、このざまである。裏切られた心持であった。

「整理券にはQRコードが印刷されており、それを読み取ると、今自分の前にいる患者の数が分かる。この画面に表示されている人数が5になったらクリニックに戻ってきてほしい、それまではどこかで暇をつぶしてきてくれ」と受付の人に言われた。
   時代はコロナ禍真っ只中である。中国由来のコロナウイルスは、グローバル化した世の中の助けを借りて、僅か数カ月で世界中に伝播した。パンデミックなどというSFじみた想定が、まさか本当に起こってしまうとは、半ば非現実に思えたがこれが現実である。
   よって人々は徹底的に、感染機会である、密集密接密着、通称三密を避けるようになり始めた。人々などというむさくるしい言葉など、忌避されて当然の世の中である。他人同士が半径一メートル以内に近づくことが許されない世界が、今ここに成立していた。その世界では、マスク着用が当たり前になり、消毒と検温器が商業施設の門番になり、つり革が汚物と同じ類の待遇を受ける羽目になる。悲しいかな、もう元通りの世界は誰もが忘れてしまった。
   そんな訳で、クリニックも密を避けなければならない。事情が事情だ、協力せざるを得ないだろう。時刻は十時十五分。もう一度、高校三年間の通学の手段として用いてきた黒い自転車に跨り、クリニックの駐輪場を後にした。

   錆びついたチェーンをキコキコ回す。はてさてどうしたものか、と私は時間を潰す方法を考え始めた。コンビニに行くことも考えたが、如何せん今日は持ち合わせがない。そうしたら、ノスタルジーを感じに、小学生の様子でも見に行くか?なんて考えは、議長の私の「君は馬鹿かね」という言葉と共に、脳内議会一同に一笑に付されて終わった。私達は子供が大っ嫌いである。ファミレスで馬鹿みたいに騒ぐガキが増えて、爽やかに朝の挨拶が出来る子供は減った。過保護な毒親は増えたが、近所の見守りおじさんは、不審者と通報されて豚箱にドナドナされた。全く悲しい時代だ。歪んでやがる。いやずっと歪んではいたか。それが析出しただけ?まあいい。とにかく、そんな時代の元子供だったからこそ、奴らの内面と凶悪性は身を持って知っている。
   そんな風に苦々しい子供時代をぼんやり回想していると、私の脳裏にある場所がよぎった。


   クリニックから五分もかからないところに、その公園はある。狭いぞと言われて訪れれば広く感じ、広いぞと言われて訪れると狭く感じる、中途半端な広さの公園だった。遊具も四席ブランコと滑り台のみ、という極めて基本に基づく保守的な構成だ。後は公衆トイレと、老人たちが集まって将棋を打つ、ひさし付きのベンチがあったが、本日の老人会は開催されないらしく、公園内には誰もいなかった。すぐ傍にはそこそこ川幅の広い河川が流れていて、私の身長くらいの高さのコンクリートの防潮堤越しに、係留されている小型ボートのマストがゆらゆら揺れているのが見える。河口から一キロもない、その気になれば海である。よって磯。磯の香りがドアップで鼻腔に迫ってくる。さらに、どうやら近辺に魚肉加工工場があるらしく、辺り一帯には磯の香りと共に、むせかえりそうな魚を加工している匂い、あのアンモニア臭に近いが決して交わることのない匂いで満ち満ちていた。それらが花粉症の鼻を過貫通して主張してくる。嫌いではない匂いだが、吸い続けると元気が削られる匂いでもある。
   環境的には中の下だが、まあそれも悪くない、と思えるほどに私の心にはゆとりがあった。なにせもう学校に行かなくていいからだ。私を縛るものなどないように思えた。ひとまず、進学のための受験はもうしないで済む。その心情に、春の陽気な日差しが背中を押して私はうっきうきで自転車を降りブランコに座った。ああ、こうしてブランコに座るのは何年ぶりだろうか。日差しが気持ちいい。私は目一杯伸びをした後、ジーパンのポケットから何気なくスマホを取り出して、何気なくSNSを開いた。それが間違いだった。

「卒業なう!マイベストフレンド!幸せはーとはーと(原文ママ)」
 
 実際に耳にしたわけではないのに、天の声よろしく耳元に大音量で、そのキャピキャピした声が聞こえた気がした。私は思わず両手で顔を覆って天を仰ぎ、声にならないうめき声を上げた。その投稿をしたのはクラスメイトの明るい女子らしい。何となく去年の始業時に、何となく周りの空気感に圧迫され、何となく入れたアプリの、何となくフォローしたその陽キャ女子その人だ。私が梅雨の擬人化だとしたら、彼女はきっと七月下旬から八月上旬のからっとした太陽そのものの擬人化であろう。心なしか天気が曇り始めてきた。梅雨にはまだ早いが、もうそんなことどうでもいいから今すぐ滂沱たる雨に打たれたかった。つらい。というかこの公園くっせえな。見るとトイレのドアが開いている。ああ気づきたくなかった。もしかしたらこの匂いはアンモニアの匂いそのものなのかもしれない。いや悪臭デュオが悪臭トリオだったのか。こんな状態で雨に打たれたらトイレの水を頭からかぶっているように錯覚するではないか、やっぱ雨は降らない方がいい。だがだからと言って晴れないでくれ、今は私に太陽光を浴びせないでくれ、頼むから。今はそんな気分じゃないんだ。


 しばらく俯いているとなんだか無性に腹が立ってきた。どうして私がこんな思いをしないといけないのか。我ながら惨めだ。いや私は惨めなんかじゃない。私は立ち上がった。こうしていかにも「自分は充実している」ってことを見せびらかす奴らが悪いのだ。だからと言って誹謗中傷を表立ってなんかしない。有名人や才能を持った者に対して、アンチやクソリプなんかでストレス発散する奴は死体に群がる蛆虫と一緒だ。いや蛆虫は医療分野で活用できる話が進んでいるから、人間の役に立つ。つまり奴らには蛆虫様程の価値もない。そういう悪口とか軽蔑は心の中でそっと閉じ込めておくべきものなのだ。奴らはそれが分かって無い。他人に迷惑をかけていることが分からないクソ野郎どもである。そんな奴らが生きていくことは否定はしないが、そんな腐った奴らと私は根本から違うのだ。一緒にしないでほしい。私の視界から消えてくれ。
 ああ本題から脱線した。そんな自分にも腹が立つ。なんとくそったれな時代だ、承認欲求が独り歩きしていやがる。本来人間の管理下だった承認欲求が人間を支配していやがる。何たることか。それはそれは、「いいね」を貰えると嬉しかろう。幸せを周りに放出するのは楽しかろう。だがよく考えてもみてくれ、君達が光れば光るほど私達の影はどんどん濃くなっていくのだ。しまいにゃ私達は、嫉妬と劣等感の炎に焼かれて燃え尽きて灰になっちまって、風に吹かれてぴゅうである。何と儚い人生か。ああそうか、花咲か爺さんという童話があったな。あの灰は確か飼い犬の灰だった。それを撒いて桜を咲かせていたような気がする。つまり日本の桜は、そのような黒子たちの、燃え尽きた灰が風によって桜の枝に撒かれて咲いているのではないだろうか。そうじゃないと報われん。だがそんなことをしたら
「あ、髪の毛に花びらがついてるよ」
「え、嘘?!どこどこ?」
「取ってあげるよ(髪を触る音)」
「あ、ありがとう」
「お、おう」
なんて互いに赤面する青春テンプレ展開が桜前線の上昇に伴って全国各地で起こりやがるなんとくそったれ!こちとら生まれてこのかた独り身である。アオハルなんて言葉はランドセルと一緒に火にくべてしまった。まあ他人の幸せの手助けをするのは悪くない。他人の幸せを祝えないことほど惨めなことはない。他人の幸せの邪魔などしたくはない。だが所詮その心持ですらボランティアなのだ。報酬は無い。ここでいう報酬とは自身の幸せである。この世に見返りが確定している行為などない。ないないないないない!ないないだらけだ。何もかも私には、世界には足りない。くそが。
 私は小石を蹴りつけた。小石は跳ねて道路まで飛んで行った。その後軽自動車にでも轢かれるのだろう。ざまあない。ああ、それでも落ち着かん。腐った流木の一つや二つをめちゃめちゃに壊さないと気が済まない。なんだ奴らは。羨ましい妬ましい。もうここまで来ると褒めても貶しても腹が立ってくるように思える。鼻息が荒くなった。




   激情は、持続しにくい。それは私にとっても例外ではなかった。小石を蹴り上げたつま先が若干痛み始めたのもあり、私はげんなりして、クローバー探しによって踏みつけられたシロツメクサのように、よろよろとブランコに座った。
   そうなると大抵私は賛美と自虐に走る。ああ、写真の彼女らは偉大だ。正統派の真っすぐな青春をお送りになられた。私には到底できないことをやってのけた。人と話すことに困ったりなどしないのであろう。だがその裏では弛まぬ努力をしてきたに違いない。私のようなものは千円の散髪屋に向かうが、彼らは美容室に行かれるのであろう。話題を逃さないために、周囲の情報に気を配り、自身の立場をわきまえているのであろう。何しろ物に当たり散らしそうにない。当たり散らさないといけない程の人生を送ってきた私が悪いのだ。
   なんだか少し落ち着いてきた。他人を褒めると自らの度量が広くなったように思える。自身を貶すと自省のできる人間のように思える。根本的な解決には至ってはいないが、応急処置としてはまずまずだろう。さて・・・何だろう、疲れた。

   今日は空が青かった。気持ちのいい日だ。私は目一杯伸びをした後、ジーパンのポケットから何気なくスマホを取り出して、QRコードを読み取った。まだ十人近く居る。まだまだここに長居できそうだ。私は春の空気を目いっぱい吸った。濃縮された魚肉加工品の香りが、鼻腔いっぱいに広がった。それにしても手持無沙汰だ。やることがない。そうだSNSを見よう。私は何気なくSNSを開いた。

   人間は過ちを繰り返す生き物である。それが無意識によるものだと、十分な防御が出来ていないため尚更厄介になる。

   分け入っても分け入っても卒業記念の写真。しかも大多数が手元に卒業証書を添えて。先程のは一枚のみだったのでまだ整理がつくが、こうもどっと来られると、なんか、こう、自分だけが、世界に独りぼっちで置いて行かれているように思えてならない。充実した学校生活など、高級外車と同じ貴重なものだと思っていたが、周りを見渡すとみんな高級外車を持っている。そんな中、私は錆びついた黒い自転車だ。なんだこの格差は。もっと世界は平等に機会を与えるべきだ。これでは余りにも理不尽じゃないか。なんだか無性に腹が立ってきた。むかむかする。今回に限れば、悲嘆に暮れて雨雲を呼べるほどの余裕は無かった。辺りの空気が臭いことに変わりはないが、なんだかそれが自分にふさわしいように思えた。トイレのドアを蹴破ることだって出来そうだったが、そんなことをする馬鹿ではないのでやめておく。

   さあて腹が立ってきたぞ、自尊心がいたく傷つけられたぞ。ああ楽しくなってきた。自分が少なくともこの地域一帯で一番可哀想に思えてきた。最高だ、最悪だ。こんな可哀想で惨めな私など誰も振り返りはしない。というかそもそも、平日の午前十時半に公園に遊びに来る奴などいない。そして今、誰も公園にはいない!つまるところ私は自由だ、誰の目も気にせず誰が何と言おうとこの公園には私自身しかいない、ここは私の国だ、この公園は私の公園だ、ははは、私こそがこの公園の王なのだ馬鹿め!


   それからはもう狂うことしか、救済の手段は残されていなかった。劣等感と悲哀と自尊心と嫉妬で、心が滅茶苦茶のぐちゃぐちゃになっているからな。
   まず、私は高笑いしながら「元」クラスメイトのフォローを外しまくった。もう人生で二度と会うことのない奴らに、なぜこの私の心が、この尊い唯一の心がかき乱されなければならない。どうせ作り笑いと見栄、あとほんの少しの嘘の関係だ。断ち切ったって問題は何一つない、と私は私に言い聞かせた。この世界は雑多な人間関係が多すぎる。何故相互利益をもたらさない関係の人物と繋がっている必要がある?そもそもフォロー一つ外すだけでたちどころに消えるような人間関係は打ち捨て滅ぼすべきなのだ。私は正しい。私は、奴らの承認欲求を満たすためだけの道具、に成り下がる者か?いや違うだろう。私は私のために生きている。他人のために生きているわけではない!私は私しか、自身を救える人などいない、私を理解できるのは私自身のみ!私こそが私の中で最も尊い唯一神だひれ伏せ愚民の私どもめが!
   ああ自らの行為の正当化は容易だ。何しろ楽しい。どんどん自分に自信がついてくる。間違いに気づくことは出来ないが、今はそんなことどうでもいいから自分を修復するのが先決だ。一方悔いるとすることがあるならば、私は他人が隣にいる人生を送れないであろうことだ。他人に認められることなどないということだ。他人のために生きることなど今後一切ないだろう、ということだ。だがそんなの構わない、私の命は私のものだ。私が居ればそれでいい。他人も自らも、全て自己の中で生み出して育んで殺せばいい。私が死ぬまで、私の主観の世界は私自身にしかないものなのだから。ようし決めたブランコを漕ごう目一杯漕ごう。十八歳の青年がブランコを漕ぐ姿はさぞ滑稽に見えよう。まして高笑いしながらだ、狂人に見えるだろうか?ははは馬鹿め私は狂ってなどいない。狂っているように見えるお前自身こそが狂っているのだ!ああ楽しい!ブランコたのしい!わあいぼくぶらんこ!
   こんなことをしていたからか、幼い頃の一つの夢を思い出した。公園を独占して一人で満喫する夢だ。あの頃の私にとっては野望に近い。公園ではいつも子供同士のグループが出来ていた。私はその輪に入れなかったから、その子たちが居なくなるのをずっと待っていた。しかし待てど暮らせど立ち去る気配はなく、五時のチャイムが敗戦を告げた。それが毎日だった。その時の私の惨めさと言ったらもう言葉に出来ない。
   さあ幼き日の私、お兄さんの私が、君の夢を十数年ぶりに叶えたぞ。ほらどうだね、君の夢や願望、欲求を満たすことが出来るのは君自身しかいないこと、これでよーくわかっただろう。誰が何と言おうと、現在この公園には君と私しかいない。さあ思う存分遊びたまえ!私は目の前の、幼き日の私の幻影に向けて、ブランコを全力で漕ぎながら語り掛けた。幼き日の私は、私を凝視した後、口を開く。
「おまえがいると、ふたりになってしまうじゃないか」
 え?
「わたしのゆめをかなえるのなら、いますぐここからでていってくれ」
幼い私はゴミでも見るかのように、私を睨みつけた。
「し、しかしだな、君の夢を叶えたのは私であり、そもそも君を呼び出したのも私で―」
「はやく、でていけ。みじめなしょうらいのわたし。わたしのゆめはかなおうとしている。そしてそのゆめは、おまえがここからきえることによって、かんせいされる。したがって、おまえはもうようずみだ。なのにおまえはでていかなかった。でていかず、えんえんとそのみにくいすがたをわたしにさらしつづけた。さらに、おまえは、みらいへのきぼうをわたしからうばいさった。こんなものになるなら、こびへつらい、みせかけのなかまにかこまれながら、いきたほうがずっとましだ。ああもう、まったくもってふかいだ。めざわりだからきえてくれ」
 何故だろうか、胸が痛い。気持ちがどんどん萎えていく。先程まであんなに漲っていた力が、今はもうなくなってしまった。何だろう、無性に誰かに縋りついて泣きたい気分になった。

   ああそうか、私には縋りつける仲の良い者などいないのだ。

 ブランコの錆びついた、鉄と鉄のこすり合わさった騒音が耳を責めた。他人の食生活を支える、人の役に立つ魚の匂いが、私の鼻っ柱をへし折る。奥から自転車に乗ったおじいさんが不審そうにこちらを見つめてきた。その視線が私に刺さる。何も知らない汽笛が、遠くでのんびりと鳴った。ああ・・・。
 スマホの画面を開く。残り三人しかいない。時間も体力も何もかもを無駄に消費した。私はよろよろと、錆びついた相棒に跨る。するとどこからか強い視線を感じ、辺りを見回す。道路の向こうで、小石が憎々しげにこちらを睨みつけていた。私は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。私は申し訳なさそうに自転車を降り、びくびくしながら小石をつまみ、公園に戻した。不甲斐ないなあ。

 用済みの私は、かつての領地から追放された。

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