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バー・マリア

「一体なぜそんなことを?」

もう何杯目だろうか。
グラスに残った薄いウイスキーを一気に飲み干した。

「……」

ころん、と元ブロックアイスが音を立てた。

「あなたのその軽率な行いのせいで……」

ブルックリンの夜。
とある場末の馴染みのバー。
そこで私はたまたまとなりに座った男性と、過去のよもやま話などをひけらかしあっていた。

せっかくのクリスマス・イヴ。
どこへ行く当てもない孤独な男ふたり行きつく話題と言えば、自虐風味の身の上話と相場が決まっている。

「……」

薄暗い店内では、聞こえるか聞こえないかというレベルまでボリュームを絞られたジャズが、ぽろぽろと流れている。
例に漏れず我々も、決して愉快とは言えないテーマで論じている所だ。

「なんとか言ったらどうです?」

普段、知らない人間と酒を酌み交わす習慣はないのだが、あまりに心もとないBGMと不安定な精神状態のせいで、半ば破れかぶれとなった妙な心持ちのせいか、ふと宗旨替えをしてしまった。

話を聞くと、コートも脱がず末席で背を丸めているこの男『メイソン』は、先日浮気をしたようだ。
それを知った同棲相手である恋人の女性(マリアというらしい)が、ショックのあまり自殺をしたらしい。

なかなかにセンシティブな話題ではあるが、彼はきっと私に同じ孤独の匂いを感じ、酒の席という事も相まって、こうして自身の汚点を打ち明けるに至ったのだろうと思う。
だが安酒にすっかり酩酊してしまっていた私には、それをなごやかに聞き流すことができなかったのだ。

「その遺書の内容は、事実ですか?」

「……あぁ」

「マリアさんはすべて知っていたんですね、あなたが隠れてしていた所業を」

初見の相手に『所業』などと問責するような口調を自重できないでいるが、是非もないことだ。
その恋人が残したという遺書(内容はおおむね聞いた)に書かれていたらしい内容が本当に事実だとすると、彼の犯した禁忌はあまりにも重いように思えた。

「むかし……」

初対面の男からの糾弾に耐えかねたのだろう、彼が不承不承といった様子で、重い口を開いた。

「裏切られたんだ、初めての恋人——マリアに」

「マリア……」

「といっても、亡くなった『マリア』とは別人だけど」

たまたま同じ名前だったという事か。
私は頷き、続きをうながす。

マスターのグラスを磨く音が、間を埋めた。
気づけば他の客は、いなくなっていた。
間もなく日が変わる。
聖なる夜明けを、わざわざこんなうら寂れた地下で迎えたがる不信心者は多くない。

ちなみに。
私は決して下戸ではない。
時節も忘れ、こんなに熱中してしまったのには理由がある。

「浮気、されたんだ。俺——」

「……ほう」

「彼女は言った。過去に浮気をされたことがあると。だから次に誰かと付き合うときは、自分から浮気をしてやるんだ、と。そうすることでもしまた裏切られても傷つかなくて済むと……」

「そうでしたか……。それはさぞかしお辛かったでしょう。ですが――」

「俺は、絶望した。誰も信じられなくなり、身も心も追い詰められた。自殺だって試した……」

メイソンは意識してか無意識でか、私の言葉を遮るように話し続けた。

ごらんの通り失敗したけどな……と伏し目がちにつぶやく、その口元だけがシニカルに歪んでいる。

だが――。

「だからと言って肯定はできません。お気持ちはわかりますが過去の話でしょう? それが今回の『マリア』さんと何の関係があるんですか」

私がきっぱり言い放つと、彼はおもむろに視線を上げ、私の瞳を貫くように見つめた。
あるはっきりとした感情を伴ったまなざしだ。
私と違い、あまり深酒はしていないようだ。
一気に両者間の温度が上がったような気がした。

「俺はな、もう二度とごめんなんだ! あんな思いは!」

ドン! とテーブルを叩く。
ツマミのナッツがひと粒、小皿の中から跳び出した。
気を使い心なしか離れて立っているマスターが、ちらりと我々のいる末席を見やった。

「——それから俺は、『マリア』という名前の女ばかりを選んで付き合い、自分から先に浮気を仕掛け、何人もの『マリア』を裏切ってきた」

「それは、ひとりよがりがすぎませんか? 自分勝手な復讐心を、あえて赤の他人の『マリア』さんに向けるなんて……。それじゃその方たちがあまりにも不憫じゃないですか! それに、浮気相手の女性にも失礼です」

そんな子供じみた理由があってたまるか。
それはただの八つ当たりでしかない。
彼に裏切られた他の『マリア』達にとっては、たまったもんじゃない。

それにいかなる理由があったにせよ、そういった男女の密通に、一切の正当化なんて通じやしない。
通じてはいけない。

「——私は、浮気や不倫、そういった独善的な背信は、どんな理由があっても決して認められません。最初の『マリア』さんの行為も、それをなぞったあなたの行為も」

いたずらにそういった過ちを美化する風潮も巷にはあるようだが、私にはとても寛容にはなれない。

「どうせ、みんな自分の快楽が一番なんだ。自分さえよければいいんだ! 散々朝帰りを繰り返し、人を振り回しておいて、『マリア』のヤツ、最後俺になんて言ったと思う?」

最初の『マリア』の事だろう。

「——『好きな人がいるの。結婚することになったから、別れてちょうだい』だ」

「……」

「一年も付き合って、いきなりだぞ? それっきり音信不通さ。一体俺が、どんなにあいつのことを想って、どんなに尽くしてきたか……。それを、あんな、まるで着飽きた服を捨てるかのように……!」

その出来事に関しては同情する。
が、やはり私にはこの男が幼稚に思えてならない。
自分の負った傷を、他人を傷つけることで癒そうとし、あげくそれを過去の他人のせいにして正当化を図る、浅はかで子どもじみた価値観だと思う。

「……俺はな、親父と愛人の間にできた子だった。ずっと人目をはばかる様に生きさせられた。親戚からも腫れ物扱いされ、学校ではいじめられ、母は母で、外に男を作って出て行った。俺は捨てられたんだ……!」

口角泡を飛ばし、吐き捨てる。
だからこそ、最初の『マリア』さんに、深い深い愛着を抱いたのだろう。
別れた反動で自殺を試みる位に。

だが━━。

だが、それがなんだ。
それがふたごころを持ってもいいという免罪符になるとでも言うのか。

「メイソンさん……。そんな話はね、この世の中珍しくないですよ。みな一様に何らかの形で、不条理な問題を抱えて生きてきているんです。自分だけが被害者面をしちゃいけませんよ」

彼が自身の生い立ちによって苦悩してきただろうことは理解する。
さぞかし辛かったろうとは思う。
きっと他にも様々な理不尽に打ちのめされてきたのだろう。
第三者からの綺麗事で整理できるような話ではないはずだ。

だがそれはそれ、これはこれだ。
自分が物を盗まれたからと言って、同じことを、赤の他人にしていいはずはない。

「あなただけではない。私にだって同じような経験は――」

「うるさい、もううんざりだ! 俺はな、もう傷つきたくないんだ。だから俺も、裏切られる前に裏切った! 俺を罰するなら、『マリア』も罰するべきだ。あいつが俺を捨てなければ、俺もこんなことはしなかった!」

――あいつと、あいつを奪った男を見つけたら、きっとこの手で殺してやる!
喉の奥から振り絞るような声で、そう吐き捨てる。

「……あなたはただ怖いだけでしょう。でもそれじゃ、あなたを傷つけ去った『マリア』さんと、同類じゃないですか」

『過去の記憶に対する復讐』ほど、虚しく愚かなことはない。

「——あなたがすべきことは、己がされた不義を憎み、せめて自分だけはと、ひとりの人を全力で愛し抜くことだったんだと思います」

今日の私はどこかおかしい。
柄にもなく熱くなってしまっている。
彼と私には、似ている部分があった。
性格が、ではない。

「俺は悪くない。悪いのはこの腐った世の中だ! さっきあんた言ったよな? そんな話は珍しくない、みんな不条理な思いをしてるって……。だったらやっぱり世間が間違ってんだ。周りがどうかしてんだ!」

酔いは少し醒めつつあった。
だがメイソンの熱情に中てられて、内心ある意味でハイになっていた。
頼んでもいないのに出された水を、インターバルがてら口にする。

「仮にあなたの言う通り、腐っているとしましょう。この世の中は、欲望に満ちた、軽はずみな、誠意のない、不条理で理不尽な欺瞞の愛で満ちていると」

そしてこの男もまたその闇に飲み込まれ、一度愛した人を殺したいとまで言い切るほどの憎悪に支配され、裏切りの連鎖という同穴に落ちたとしよう。

「——であればこそ、やはりあなたは負けるべきではなかった。過去の痛みに負けて、無関係な女性を傷つけるべきではなく、傷だらけになりながらでも愛し抜いてあげなければいけなかった」

「……分かってる、ほんとは分かってるんだ。いつまでも過去に囚われ、怒りを発散しても仕方ないって……。でも、怖い。怖いんだ」

やはり最初の破局がよほど堪えたのだろう。
この男も過去にはそれだけ、真剣に恋愛をしていたのかもしれない。

「——信じてもらえないかもしれないが、今度こそはと思っていたんだ。もうこんな情けない事はやめて、今度こそ真剣に愛そうって……」

大きなシーリングファンが、重たい空気を撹拌しつづけている。
グラスが冷たい涙を流し、テーブルに透明な弧を描いていた。

「亡くなった『マリア』さんを、本当に愛していたんですね?」

「はじめは今までのように、裏切る前提だった。でも――」

付き合っている内に、心から惹かれていったのだと言う。
そしてやがて、勇気を出して同棲を始めたのだそうだ。

「このまま一生マリアだけを愛し抜こうと思っていた。神にも誓ったさ。この子となら、過去の呪縛から解き放たれて、きっと互いに幸せにしあえると思った。来年、結婚するつもりだったんだ」

気づけば彼のチェイサーは飲み干されていた。
彼はマスターの気遣いで少し冷静さを取り戻したのか、ややトーンを落としてつぶやいた。

「——でもしばらくすると、毎日の帰宅が遅くなった。終電で帰って来る日も珍しくなかった。本人は後ろめたいことなどないと言い張っていたけど……」

それは結婚に向けての、彼女なりの努力だった。
決して経済力のあったわけではない彼との将来のために、必死に残業をしていたのだ。
遺書にはそう書いてあったと、彼自身が言っていた。

不安になる気持ちはわかる。
私もそうだった。
でも、それも恋愛の持つひとつの側面なのだと割り切ることも必要ではないのか。
そういう不安を乗り越えてこそ、ではないのだろうか。

肩を震わせる彼にそう伝え、さらに続けた。
こんなに饒舌になっている自分に、内心戸惑いながら。

「不安と恐怖に負けてしまったのですね? それでもあなたは、信じ続けなければいけなかったのだと思います。あるいは、しっかりと話し合う必要があったのではないでしょうか」

しばしの沈黙。
先ほどよりもジャズのボリュームが少し上がっている気がした。
私はさらにウイスキーを2杯注文した。

初老のマスターは一拍おいてから、かしこまりました、と頭を下げた。
ここのマスターは無口だ。
接客以外に、無駄な口を叩かない。
そんなところを私は気に入っている。

「あぁ……。ところで、あんたも確か――」

彼は攻守交代だと言わんばかりに、私に話を振った。
はじめに彼に話しかけたのは私だった。
女性の話をしたいと思っていたのだ。

「あぁ……。『マリア』の話が、途中でしたね」

ダブルのウイスキーが我々の前に出される。

彼と私の間には偶然と呼ぶにはあまりにもタイムリーな共通点があった。
そうでもなければ本来、ここまで深酒をするつもりはなかった。

私にも、過去にマリアという名の交際相手がいたのだった。
結婚まで誓い合った仲だった。
だが彼女はいつの間にか私の前から姿を消した。
互いに多忙な中(私もマリアもニューヨーク中を飛び回る仕事に就いていた)、なんとか時間を捻出しては逢瀬を重ねた。

『いずれ、一緒になろう。きっと幸せにするから』
『わたしには、あなたしかいないの。愛してる』

そんなドラマじみた歯の浮くような口約束を交わしたこともあった。

でも。

「結婚間近で姿を消した――ってわけか」

「えぇ、前触れもなくね。もちろん必死に探しました。けれどついぞ消息は掴めずじまい。——あぁ、捨てられたんだなと気が付いたのは、しばらく経ってからのことです」

ある日彼女から、残酷な手紙が届いたのだった。
内容については……まぁ、触れる必要はないだろう。

「……そうだったのか。あんたも色々あったんだな」

「このバーにも、彼女と何度か来たことがあるんです。捨てられてからも、『もしかしたら……』なんて淡い希望を抱きながらよく通っていました。今日だってそうです」

――実に哀れで女々しいもんですよ。

先ほどひとり零れた哀れなナッツを拾い上げ、かじりながら自虐した。

「俺もだよ。俺も何度か最初の『マリア』とここへ来たことがあるんだ。今夜は数年ぶりさ」

「ほう、そうでしたか! もしかしたら過去に出会っていたかもしれませんね」

「……なんか、ずいぶん似たもの同士だな、俺たち」

互いにマリアという恋人を失った。
このバーにも、特別な思い入れを持っている。

「ここで会ったのも何かの縁でしょう。さっきは酒の勢いで出過ぎた事を言いました」

残ったスコッチを勢いよく流し込む。
ここは私が持とうと決めていた。

「なぁに、事実さ。俺も熱くなりすぎたよ」

「マスター」

私はジェスチャーで退席を告げた。
ついに最後まで、新たな客はやって来なかった。
以前マリアと来た時は、もう少し繁盛していた気がしたが。

「……ん? お、おいあんた!」

彼のうろたえたような呼びかけを背に受ける。

「まぁまぁ。非礼の詫びというわけではないですが、せめて会計だけでも。どうせ誰に使うでもない金です」

クールを装い、あえて視線を合わせぬよう会計を済ませると、マスターが白毛混じりのシェブロンを触りながら、ぽつりと言った。

「人生、色々ありますな……。全ては神の思し召しでございましょう」

「……? それは私へのクリスマスプレゼントかい?」

この男が自ら客に喋りかけるなんて、珍しいこともあったもんだ。
やけに含みのある物言いをするものだとわずかに訝しがりながらも、メイソンからの呼びかけに遅れて振り返る。

「あんた、そのタトゥー……」

なぜかメイソンは、眉をひそめ目を凝らすようにして、私の首元を指差している。

「これが何か?」

私のうなじには、神の横顔に『M』が2つと、翼に『1224』という数字が彫られている。
数年前、マリアとペアで入れたものだ。

「それはどういう意味だ?」

数字の事だろうか。
表情に鬼気迫るものを感じる。
単なる興味で聞いているのではないとすぐにわかった。
一体どうしたというのか。

「ハハ……。若気の至りというやつですよ。件のマリアの誕生日です」

私はうなじに触れながら、恥じ入るように告げた。
ただでさえ薄暗いバーで隣り合い座っていた為、今の今まで気づかなかったのだろう。

「そういえばまだあんたの名前を聞いていなかったな?」

一度和やかになりかけたムードが、再度急速に熱気を帯びていく。

「そうでしたね、これは失礼。マーティン・フィリップスと言います」

「マーティン……。『M』か……。誕生日は?」

メイソンは矢継ぎ早に質問を繰り出した。
声色はまるで質問のそれではなく、尋問のようだ。
重苦しい重圧を感じる。

「一体なんです? 11月29日ですが」

対峙する彼のこめかみが、ぴくりと震えたのが見えた。

「ひとつ言い忘れていたが――」

いきなりなんだ。
相当酔っているのか?
それとも散々のぶしつけな追及に対する、意趣返しだろうか。

「俺を裏切った『マリア』も、12月24日生まれだったんだ」

「——!」

胸騒ぎがした。
ジャズの調べが、さらに遠くに聴こえる気がする。
これは……『So What』だろうか。

まさかね――。
そう無意識に思っていた。

「そしてある日、彼女のうなじにタトゥーが入ってた。そう、あんたのとまるでそっくりな」

ほんの些細な偶然だと。
面白い共通点だと。
どこかで最悪な可能性は切り捨てていた。

「な、なんて彫られて……?」

予想だにせぬ展開に一気に酔いは醒め、醒めすぎて私の海馬はある記憶を再生した。

――殺してやる!

「天使の横顔に『M』が2つに。翼に『1129』だ」

あの時見せた、怨嗟の炎に焼かれた目を、今眼前の男はしていた。
この男は本気だ。
本気で殺す気だったのだ。

――あいつと、あいつを奪った男を見つけたら、きっとこの手で殺してやる!

初対面の男に何を説かれようと、尽きるような生半可な執念ではなかったのだ。
いや……。
ある意味、初対面ではなかった。

「ま、待ってくれ。私は何も知らなかった」

本当だ。
私が先ほどまでこの男に垂れていた講釈も、心の底から思っていたことだ。
自ら望んで間男に成り下がるなんてことはありえない!

「——げ、現に私も裏切られている。最後にはメイソンさん。あなたと同じように捨てられてるんです!」

「だから、なんだ?」

メイソンはコートの内に右手を突っ込んだ。
そういえばこの男は、ずっとコートを着たままだった。

「しし、知らなかった! まさか私が浮気の対象だったなんて、知らなかったんだ、本当だ!」

思わず後ずさる。
打ちっぱなしの、コンクリートの壁にかかとがぶつかる。
冷汗が止まらない。

「関係あるか! 間男め! 『マリア』を返せ!」

怨嗟に満ちた咆哮とともに、彼は右手を引き抜いた。
その手の中には、黒光りする復讐心の実体。
こちらに向けられたグロック17。

「冷静になれクソったれ! 聞けメイソン! 私は本当に、誰かから女を奪うつもりなんてなかったんだ! しかもまさかそれがあんたで、あんたをこんなに苦しめてしまっていたなんてことも、決して思いもしなかった!」

まさか同じ『マリア』に苦しめられていたとは……。
こんないたずら、運命と呼ぶには理不尽すぎる。
目と鼻の先で、銃口が震えている。

「——あ、あんた、12月24日の今日、誕生日のはずの彼女が来るかもしれないと、そう思ってここに来たんだろう? 私もそうだ! 私もいまだに苦しんでいる! いいか? 私たちは分かりあえる。悪いのは私ではなく、マ――」

轟音が鳴り響き、目前で火花が舞った。
胸部に信じられないほどの衝撃と、それから熱を感じ、まるで体が内側から焼けただれていくような気がした。

壁を滑るよう崩れ落ち、仰向けに倒れる。
見上げた天井に、ゆっくりと回るファン。
徐々にかすれてゆく赤みがかった視界。
覗き込む影。

「おまえ言ったな、マーティン……。『浮気や不倫はどんな理由があろうと許せない』って」

硝煙の匂いが鼻腔をつく。
喉奥に生ぬるい逆流を感じ、むせ返る。
どくどくと、心臓の鼓動に合わせて溢れ出てくる。

「——同感だよ」

「ゴボ……ガフッ……」

喋れない。
痛みはないが、熱かった。
私は恐らくすぐに死ぬ。

さっきこの男は、『マリア』を返せと言ったが。

一体どの『マリア』なのだろうか。

潰えゆく意識の隅。
鼓膜に触れるもう一発の銃声と、人の倒れこむ音。

それと――。

「全ては神の思し召しですな」

マイルス・デイヴィスのトランペットのようにやさしげな、マスターの声だった。

「ミスター・メイソン。あなたに殺された『マリア』は、私の娘です」



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