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武勇伝

 学生は期末テストの時期だ。自分がテストを受けていたのなんて何年前の話だろう。まぁあまりこの話をすると著者の年齢がばれてしまうのでここらへんにしておこう。

 「テスト」とは基本的に上限が決まっている。それこそ学校のテストが良い例だ。各教科で満点が決まっている。小学校の頃は100点を取って当たり前のようなテスト、中学に入ると100点を取らせまいとして最後の一問くらいをやたら難しくされる。高校生になると、欠点を取らなければ御の字。ちなみに著者は頭が終わってるので、中高で100点なんて取ったことがない。それはさておき、満点を取れたらそのテストは「完璧」だったと言えるだろう。勉強方法がどうあれ、別用紙にしていた途中計算でミスをしていても、答案用紙に〇しかなければそれは完璧なのだ。学生の間に「完璧=満点」の等式が自然と頭に刷り込まれていく。でも、いざ学生が終わり、社会人になると、この完璧の基準は突如として曖昧になる。営業なんかで取引先のような相手がいる場合は尚更だ。一例を考えてみよう。企業の会社説明会で使うプレゼンを用意するとしよう。プレゼンが「完成」した。果たしてそれは「完璧」だろうか?何をもって完璧、または満点とするのだろうか?誤字脱字がないこと?要点がわかりやすくまとまっていること?会社説明会で来てくれた就活生が全員自分の会社の入社試験にエントリーしてくること?

 1つ目、2つ目は大前提と言われるだろう。ある人は3つ目を満点の指標にするかもしれない。でも当たり前の話、会社説明会に来てくれた人が全員入社試験を受けにくるなんて、不可能である。となると、これを尺度にすることも相応しくないと感じる。ではどうするか。一つの結論にたどりついた。

 完璧な基準が曖昧な場合、
「完璧とは、本人が持てる最大限の努力を尽くすこと」だと。

 ビジネスの世界で努力で評価しても結果がついてなければ意味がないと言われる。利益を出さないといけないのだから、その主張は理解できる。でもその結果は何をもって結果がついてきたというのだ?となるので、あえて努力にフォーカスしたい。

 最大限の努力とは、自分が納得するまでプレゼンを作りこむことだ。誤字脱字はもちろん、要点をわかりやすくまとめること、見やすいフォント、フォントサイズ、色使いにすること、飽きないスライドの枚数にすること、自然な流れの構成にすること、説明するときの口調、声のトーン、抑揚、休止の取り方、あげだしたらキリがないが、それらを自分が良いと思えるまで作りこみ、練習することじゃないだろうか。それを聞いた人がどう受け取るかはその人次第なのでこちらがどうこうできる問題ではない。それによって完璧かどうか決められたらたまったもんじゃない。誰かに響かなかったとしても、自分がベストを尽くしたんだから自分のプレゼンが響いている人は誰かしらいるはずだ。そう思えば気楽にやれるんじゃないだろうか。もちろん、プレゼンをして、反省点があって、あの日もういっかと寝ないで、ちょっとでも取り組めばもっとよかったんじゃないだろうかと思うのであれば、それは最大限の努力を尽くしていないことになるかもしれない。本番を終えていなくても、準備の段階で完成したと思っていても、自分はこの点を説明するのに本当に最大限の努力を払っただろうかと考えるなら、良い物をより良いものにできるんじゃないだろうか?

 完璧を追い求める、言葉ではかっこいいが、いざ実践しようとすると難しい。特に社会に出て働いているなら完璧とは何かの答えを出すのはもっと難しいのかもしれない。誰にでも得意分野があって、不得意な分野がある。そこまで練習しなくてもできることがあれば、習得にかなりの時間がかかることだってある。人間は完璧ではない。不完全な存在である。そんな不完全な人間が、自分にもしくは他人に完璧を求める。完璧を求めること自体人間の不完全さの表れなのかもしれない。ということで意味の分からない、「不完全」な言葉でこの記事を締めようと思う。

『焼肉とは冷麺である。』


これを完全にするのは、読んでいるあなただ。

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