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電気ウナギ

 身体に電流が走るのを感じた。雷に打たれたかのような衝撃だった。頭を鈍器で殴られたかのような感覚だ。

 驚くときによく使われる表現だと思う。よくできた言い回しだと思う。そんなびっくりしたときに、人が取る行動ってなんだろう。そう、二度見だ。自分でもわかる。自分は今日とてつもなくきれいな二度見をした。

 時刻は日曜日の午後8時、近隣の友人たちと体育館を借りて、バレーボールをしていた。そう、何を隠そう私は大の体力バカだ。毎週どこかに出掛けては何かしらのスポーツをしている。ストレス発散に行っているつもりなのに、自分のプレイのできなさ加減に腹が立ち、ストレスが溜まる。俗に言う本末転倒だ。でもやめられない。と、話が逸れたが、バレーをしていると、来るはずのない人が入ってきた。隣の県の友人だ、しかも一人ではなく3人で。コートの中でただ一人、首を二度横へ振った。あの時のスピードは梟が周りを見回すときよりも速かったと言っても過言ではない。いや、さすがに過言か。

 久しぶりにあれほどの二度見をした。終わってからどうしてここへ来たのか聞いてみると、友人に誘われたから、らしい。誘った友人と自分は大した関係性はない、でも同じ友人でつながっていた。世間は狭いものだ。誰かが言った、「振られたってまた次の男を探せばいいじゃない、この世に男は何人いると思ってんの~? 35億」と。たしかにそうだ。でもそれだけの数がいるからって、そのすべてと自分が直接つながるわけではない、人生80年生きて、つながることができるのはせいぜい数千人だろう。ましてや20代までで出会ってきた人など数百人だろう。35億分の数百という自分のテリトリーが誰かの35億分の数百というテリトリーとほんの少しでも重なる。たしかに世間は狭いと言わざるを得ない。またまた話は逸れたが、今日は世間が狭い話をしたいんじゃない。二度見だ。そろそろ、自分のプロフィール欄に特技:話の脱線とでも書いておこうか。。。

 帰りの車で少し二度見について考えてみた。衝撃を受けると確かに二度見はする。人間限定に絞ってみよう。誰かが奇想天外なことをしていると自分は二度見をするだろうか?するかもしれないが、そこまで毎回するとは思えない。では、誰かに不意に会ったらどうだろうか?今日のようなシチュエーションだ。人によるだろう。次だ。どんな人なら二度見をするんだろうか?
自分が会いたいと思っている人だ。これは個人の感覚だが、人間の目、脳とはすごいもので、苦手な人、極力会いたくない人と不意に会ったり、視界にとらえても多分二度見はしない。自分のテリトリーの中でもネガティブゾーンにいる人を見かけると二回も見なくても、その人だと瞬時に判断する、何度も見て相手と目が合うったり、相手に気付かれるのが嫌なのかもしれない。一方で、会いたいと思っている人はテリトリーの中でポジティブなゾーンにいる人だろう。ポジティブゾーンにいる人の中でもお互い忙しくて、または相手が忙しい、とか相手が芸能人で一方的にこちらが認識しているだけで、個人的に会うのがかなわない人が対象なのだと思う。脳はそのような人を見かけたり会ったりすることは幸運なこと、と認識する。自分だけだろうか、嫌なものはすぐに認識する癖に、嬉しいことは信じ難いことなので一度疑う、だから二度見をするのだ。きっと大抵の人間はそうだろう。嬉しいことがあって当たり前、だから誰か会いたい人を見かけても当然なので二度見なんかしない。こんな人がいればお気楽ハッピー野郎じゃないか。人生ハッピーだと思う。少なくとも自分はこれとは真反対だ、自分みたいな人間にこんなラッキーなことがあって良いはずがないと思ってしまう。でも今日はそれがあった。

 これからは自分が二度見をしたら、自分は今日ラッキーなことがあった人物なんだと思うようにしよう。いや、ちっこい脳みそのキャパの一部をこんなことに使っていいのだろうか?そんなことを考える暇があるなら、そろそろ文を締めたらどうだ。自分よ。いやもう少し書きたい。

 本当に驚くと言葉が出ない、言語能力がまさに電気を流されて意識が飛んでしまったかのように麻痺する。嬉しいから話したいのに、何を話せばいいのかわからない、大したこと話せなかったくせに、家についてからその友人から「疲れてた?ちゃんと休んでね」と連絡がくる。こっちは頭のなかぐっるぐるだった隙に表情まで見抜かれてやがる。明日からはいつこんなラッキーがあってもいいように、元気な顔をして生きていこう。

 ま、これを書いているのが深夜1時、明朝は6時起き。5時間以下の睡眠が確定しているのだが。。。せめて気持ちだけでも明るく生きようじゃないか

友よ、この場を借りて言おう。嬉しかったZE!!!

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