Dialogue with myself:自分という存在について

自分というは何とも不思議な存在で、私にとっては捉えにくい。
当然のように生まれてきてからずっと”自分”として生きて、
これからも生きていくわけだが、自分が誰なのか、
何者なのかよくわからないままだ。

より不思議なのが、他人の生、自分以外の生に対しては
存在に関して、疑念を持つことは殆どない。
それなのにも関わらず、自分が生きているこの生となると
なぜ存在しているのか、なぜ生きているのかを問わずにはいられない。

個人的には生命の存在に特に意味はないと思っていて、
自然発生的に生命が生まれて、
種の存続、サバイバルという目的が遺伝子に書き込まれている以上、
生命は種の存続のための存在でしかなく
本能的に存続の可能性を最大化する行動を
とるようにプログラムされていると思う。

自分のなかでは、動物としての自分、
エコシステムの1部の自分としての
役割は上記の通りで納得がいく。

ただ、自分という個体が
なぜ自分としてここに存在することになったのか
その部分については問わずにはいられない。

もちろん、その部分に関しても
人間が動物、エコシステムの中での役割を果たすなかで、
種の存続の営みから自分という生命が発生した、と
理由をつけることができる。

幸か不幸か、人間は進化の中で精神性という
高次の能力を身に付けてしまったがために、
自分の個体としての存在意義を問う能力を
同時に獲得してしまった。

もちろん、この命題について、
問わずにいられない個体、
存在していることを一部の自然として受け入れて、
疑念を抱かない個体など個体差は大いにあるだろう。

また、こんなことを考えられる余裕のある
恵まれた環境にいる、ということも見逃してはいけない。

人間が生命の危機を感じるとき、
本能として生命活動の維持が一番重要なタスクになる。

日々をリスクフリーでいきることは不可能として、
喫緊した生命の危機にさらされることのない生活を出来ているからこそ
考えられる、いわばラグジュアリーである。

それを理解した上であっても、
やはりこの精神上の命題を無視し続けて生きていくことは
難しく、事ある毎に向き合わざるを得ない。

私などは、生命の維持に関わらないすべての活動は、
この命題に向き合うことから逃げるための
気晴らしではないかと思ってしまう。

主として設定された存在意義よりも
この個々に設定された命題の遥かに難しい点は、
他人のなかに答えがないことである。
もちろん他人との会話のなかにヒントを見つけることもあるだろう。
ただ、この命題の答えとしての条件が
自分が納得できること、その1点のみなのだ。

これがなんとも厄介で難しい。
他人の定義に従って生きるというのも一つ方法ではあるが、
自分のことを自分で誤魔化すのは、
他人の目を欺くことの日にならないいくらい難しい。
自分で自分を騙していることを分かってしまうという悲劇だ。

この悲劇をポジティブに捉えるとすれば、
結論が早期に出てしまえば、
他の活動はすべて本質的ではない、ということになる。
つまりその枠をはみ出すことに挑戦したり、
失敗したりという、結果がわからないからこそできる
余白を失ってしまう。

一見気休めや命題からの会費におもえる
活動こそが人生の醍醐味なのかもしれない。
希望的観測の側面を拭いきれないが。。。

この文章で自分というものを捉えられたとはいいがたく、
むしろその真逆にたどり着いてしまったような気もするが、
答えが見つからないことをある種の美徳としたいと思う。



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