私の札幌今昔
21年11月。
早くも小雪のチラつく気候と、吸い込んだ空気の凍てつきながら軽い味わいに、久しぶりに札幌へ来たことを思い出した。
10年近く前、呑気にも大学院に通いながら住んでいた街に、久々に戻ってきたのだ。
札幌駅は、広大なJRタワーが相変わらずの威容で聳えていた。
しかし、駅前を少し大通公園の方に歩くと、旧道庁から整備された歩きやすい街並みが揃って開けた空間があることに驚き、狸小路ではランドマークのようだったドンキホーテが移転しており、加えて、これまで見たことのないほど整然とした高級感あるセイコーマートがあった。
また、JRで札幌の隣の苗穂駅で降りると、そもそも違和感があった。
車両倉庫があって、ただただ何本もの線路で街の南北が分断され、使いづらい田舎の駅だった苗穂駅が、南北に大きく綺麗なマンションが建ち並び、吹き抜けの綺麗な駅舎に生まれ変わっていたのだ。
駅北側は地元の家族連れでにぎわっていた商業施設「アリオ札幌」とも繋がる位置へ、苗穂駅そのものが移転していたのだ。
札幌の街は変貌を遂げた。
私はそう思った。
札幌の街を分析する専門家に聞くと、話は全く違った。
そもそも、札幌の中心部で街のインフラが整備されたのは50年前。
1972年の札幌オリンピックに向けた開発だったという。
その後はバブル期の開発はリゾートとしての側面ばかりで、加えて90年代後半の「拓銀破綻」から北海道そのものの経済力が弱まり、街の更新が遅れていたエリアになってしまったのだ。
確かに札幌駅前には、つい先だって、ようやく大型再開発の計画が整ったエリアがあった。
駅前の店舗やオフィスなどの雑居ビルや複合ビルを見ても、重厚感ある歴史を漂わせそうな建物も多いが、裏返せば現在の耐震基準を満たさず優良な企業は出店を見送るような建物も少なくないはずだ。
北海道という大きな陸地の中で、圧倒的な存在感で人を引きつける拠り所として生きてきた街は、実は50年にわたってつぎはぎの中心地だったのではないかという実態が浮かび上がってくるようだった。
そして、次の転機は2030年が見込まれている。
札幌駅前で、JR北海道が中心になって取り組む札幌最大の延床面積40万㎡の再開発ビルを始めとして、新しく巨大な街が整備されていく。
来年には、道内最大規模のマンションが札幌駅の北側に直結する形で完成する。
大通公園の近くでも、テレビ局や新聞社の新しいオフィスが整っていく段階で、加えて新幹線も2030年に向けて延伸を早めている。
更に、奇しくも同じ年には60年ぶりのオリンピックの開催も有望だ。
振り返ってみると、私が呑気に過ごした札幌とは、どんな印象の街だっただろうか。
性風俗店が札幌駅前から続く目抜き通りに余りにも堂々と立っていて吃驚したり、ややうらぶれたラーメン屋街に戦後はドラム缶でスープを取っていたことに由来する名店があったり、当時はもう禁止だったはずのレバ刺しが食べられると触れ込みの居酒屋が並んでいたり。
大学の敷地内なのに四方が吹雪で真っ白で、何処を歩いているのかよく分からなくなった記憶もあるし、雪の下で冷凍保存されていた銀杏が春になってから潰れて臭くなったことも思い出す。
地下歩行空間が整備された時期で、冬場は寒さを嫌ってそもそも地上を人が歩かなくなり、少数の歩いている人は、北海道出身ではない私から見ると異常なくらい雪道を素早く歩いていて、同時に滑って転ぶくらいなら全然意に介さない、暮らし方を知っている人達だった。
また、移転してきた北海道日本ハムファイターズの人気は圧倒的で、私の好きなクラシック音楽の分野でも、PMFという若手の奏者に向けた国際的な音楽祭や、土着の札幌交響楽団への愛着も強く、土地への自負が強かったように思う。
学生として関わった思い出でも、大きな流れで向上心を持って挑むよりも、何となくのんびりしていたが、同時に芯の中に札幌の土地があったような人が多かった。
結局、当時の同窓生は、そのまま北海道に居着いて仕事をしている者が多いようだ。
私から見た札幌は、整然と車線の数もある道路で、建物が並ぶ約100mずつの街区が連続する大きな街だった。
そして同時に、大きな街を活かしきれず、日本全国や世界といった視点からは取り残されながら、大きな陸地に根差しながらゆっくりと相対的な貧しさが進行していくのではないか、という印象だった。
ただ、私が街から出て行き、体感が分からなくなった10年近い間に、変化があったように見えた部分は、やはりインバウンドを始めとした大きな市場からの札幌での消費が増えていく部分だったのだろう。
北海道全体が流れに取り残された分、資金の流入先として目星をつけられると、急激に有望な余地があることが見直されたのは、想像に難くない。
現在進行形で大きな計画が決まり、次々と街の中心が更新されていっている。
ただ同時に、街の枝葉に水を差して復活させていくことは、最早、諦めざるを得ないだろう。
行政も、計画で掲げるのは中心部を発展させる「コンパクトシティ」でしかない。
のんびりとしているけど、芯が強く屈しない力の集積が、独特の魅力を育んだ札幌にとっては、それは少し寂しさが拭えない気がする。
札幌を訪れた最後の夜、私は戦後すぐから続いているという「だるま」という有名なジンギスカン屋に行った。
臭みのないラム肉などではなく、独特の匂いが間違いなく取れないマトンを使っており、その濃い味わいと軽い札幌クラシックというビールが、マリアージュというに相応しい魅力がある店だ。
すすきのでいくつか店舗があるのだが、すすきのの玄関口にあるランドマークだった「ススキノラフィラ」の傍にある「だるま4・4店」の1階がよく行く場所だった。
久しぶりに訪れてみると、まず「ススキノラフィラ」が姿を消していた。
ここは、大手のデベロッパーを中心に再開発を進めて、以前より倍の高さの18階建ての高層ビルが開発されるという。
ラフィラの跡地をぐるりと1周回ってみると、四角形の整然とした区画で、囲いの向こうで工事中のクレーンが背景に見える位置に、小さな店が建っていた。
当時と同じ場所で少し年輪を重ねたようで、また、当時は隣接するビルで分からなかった煤けた壁が露わになって、意地を見せるように「だるま4・4店」が営業していた。
店内は、コロナ禍の影響でソーシャルディスタンスを維持しながらも満員で待つ客も居る状態で繁盛していた。
私は、店が生き残っていることに懐かしみを禁じ得なかった。
ただ、感傷を取り除いて30~50年先の街を考えるならば、大きな再開発が長い耐用年数で街を飲み込んだ方が良い可能性は高い。
しかし本質的に、土地は恐らく50年より先まで残り、街は常に変容と適応を繰り返していく。
瞬間から流れを読もうとする私の思考自体がおこがましくて、だからこそビールを飲みながら見える光景が、何だか心に滲んでくる気がした。
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