私の20代
いつの間にかこの世に生まれていて、
普通の家庭に育ててもらい、幼稚園に行き、
小学校に行き、中学校に行き、高校に行き、
就職先に行き、人生30年になっていた。
ここまで自分は、どうしても普通の人生というものには縁がないのかもしれないと思っている。
父親が公務員だったこともあり、子供の時から大人になったら、なんとなく公務員になって家庭を作っていくものなのかなと考えていた。
学校で習う勉強は基本的には好きになれず、よくいる図工と体育だけは5みたいな子だった。
なので、小学校から高校卒業まで柔道部にいて、それなりに大会で勝つこともあった。
でも大人になり、公務員になるためには試験を受けて合格しないといけないから仕方なく机にもかじりついて勉強した時期もあった。
しかしやはり勉強が好きではないからいい点数を取れず、希望していた会社には通らなかった。
半ばコネのような感じで警視庁に合格して、高校卒業後はそこに就職した(最初10ヶ月は警察学校)。
ずっと九州の田舎の方で過ごしていたから東京への憧れが強かった。
東京で暮らせて、最初の警察学校の間でも毎月給料が入るという理由で就職した。
警察だからそれなりに柔道の練習もできて、まだ段を持っていない初心者の同期にも柔道を教えることができたので、子供の頃からやってたことが役に立つこともあった。
しかしそれ以外の部分は不得意で、ほとんどできない。
警察は武道だけでなく、あらゆる業務をこなす必要があり、警察に関する知識を頭に詰め込むことを求められた。
だから警察学校のときは、授業中眠かったし、試験でも赤点を取って居残りの課題に追われることもよくあった。
救急処置の訓練で包帯の巻き方を覚えれなかったり、拳銃訓練では細かい持ち方・握り方・動作などがあってそれを間違えて怒られたりと、散々の日もあった。
警察学校を卒業し、現場仕事になってからも大変な日は続いた。
同期などの近い歳の仲間とは離れ離れになり、20代〜50代や定年前の部長と働く環境に変わり、
業務を覚えるので精一杯なのと、定年前の意地悪な部長からの仕事を見張られるプレッシャーで、
胃腸炎となり、数週間ほど休むハメになった。
復帰してからもこの意地悪な部長に会うのが苦痛だったが、あと1年したらこいつは定年でいなくなると分かっていたから、何とか耐えて過ごした。
(この部長はまだ生きてるだろうか。いたらコメントしてくれ。分かるだろ、染谷、おめぇだよ。4んでたらさようなら。)
現場仕事になって1年後には、意地悪な部長もいなくなり、仕事にも慣れてきて、後輩も増えて少しずつ楽にはなっていた。
その頃自分は、20歳になっていた。
こっから先の人生もこの会社で定年退職まで働いていくということに疑念を抱いていた。
果たしてそれは本当に幸せなのだろうか?と。
この職業は給料を毎月それなりに貰えて、名も広くて、親戚やら地元でも見栄えがいい。
なんていうか安定感があるなとは思った。
でも幅広い年代の人と関わっていくうちに、この会社にいたら自分が年寄まで働いたときにどうなっていくのかはそれなりに想像ができた。
特に強く希望するような内勤の職種はない。そうなると、柔道上がりの人間だから機動隊。機動隊ばかりにはいれないから、その間は、地域。
それを行ったり来たりしているうちに定年と。
本当にやりたいことは、この会社にないと判断した私は20歳の頃に、この職業を辞めた。
そこから先に目指した場所は、消防士になることだった。
高校時に受験した消防士試験のことがずっと頭から離れなかった。
もう1年くらい勉強を頑張ってれば受かっていたんじゃないかと。
このまま警察在職だったら、勉強時間は取れるが、受験がバレたらどうなるか。
試験日と勤務日が被ってたら受けれない。
などと色々リスクがあったから、辞めたほうがスッキリすると思った。どのみち本心で仕事をしていないということだ。
そこからは貯金で生活費をまかない、千葉に一人暮らしをひっそりとしながら試験勉強に明け暮れた。
〜続く