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テニミュは伝統芸能になるのか

2021年7月9日、ミュージカル『テニスの王子様』(以下、テニミュ)の4thシーズンが開幕した。
Twitterを検索すれば感想は賛否両論、悲喜交交。まだ観ていない方々は戸惑いを感じるかも知れない。

「結局、テニミュ4thは面白いの?」

この問いに、私は迷いなく「面白いですよ!」と答える。

原作「テニスの王子様」を丁寧に追い、青春学園の三年生や二年生、不動峰や他の対戦校の物語もしっかり拾っていくところが素晴らしい。越前リョーマを主役にしながらも周囲の物語をしっかりと描く独特の構成は、原作でも意識されていると作者の許斐先生が明言している。そういう意味で、4thシーズンは正統派の「テニスの王子様」舞台作品と言えるだろう。

キャラクターの再現性が高く、原作を逸脱した表現は少ない。演出主導の役づくりがしっかりとされていることを感じさせられるもので、経験が浅めな若手俳優で構成されている演目にも関わらず、初日から演劇としての完成度がとても高かった。原作の世界観に没頭させてくれる、2.5次元の金字塔に相応しい作品だ。

楽曲は爽やかさを全面に押し出したもので、バンドサウンドやヒップホップを取り入れようとしているのも面白い。歌に安定感があり、ハーモニーも美しく、確実に進化している。各キャラクターの心情に迫る描写よりは状況に合わせた雰囲気の歌が提供されていて、ミュージカルというよりはショーに近い印象を受ける。華やかなダンスがより一層そう感じさせるのかも知れない。

テニミュボーイズの導入により表現できる場面が広がり、ダイジェストのような装いだった物語の解像度が上がった。演出過剰や観客目線が足りないところはありつつも、舞台美術の優美さや背景の映像美によってチープさは払拭されている。まさに角が取れた感じがした。

令和という新しい時代に相応しい新鮮な作品で、原作「テニスの王子様」のファンや新しくテニミュを知る方々にぜひ観てもらいたい。

しかし一方で、戸惑いを覚えてしまった。
作品が「型なし」のように感じたからだ。

「型」というのは歌舞伎の言葉で、ほぼ「演技」や「演出」と同義だ。
歌舞伎には演出家が基本的におらず、主役の解釈に合わせて作品がつくられる。かつての名役者が編み出した表現は「型」となって、名と共に代々弟子に受け継がれる。歌舞伎が伝統芸能たる由縁は、風俗を脈々と今に伝える伝統にこそある。
決まり切った演目を流行を超越した「型」でやることは間違いなく求められている。「型」を受け継ぐ世襲の家門が存続していることから、それは明らかだろう。

そうして受け継いだ「型」に、時代による演出の変更や、新たな解釈を加えられることがある。それが所謂「型破り」というやつだ。

「型を極めたものがやるから『型破り』であって、そうでないものがやれば『型なし』だ」

この言葉はよく引き合いに出されるが、元は歌舞伎役者の言葉だとされている。「型なし」とは上記から推察できる通り、歌舞伎に由縁した「本来の形を損なうこと」「これまでの評価を失うこと」などを意味する日本語だ。

私には4thシーズンがこの「型なし」に見えてしまった。作品の完成度は高いのに、一体何故?
私なりに、理由を考えてみた。

まず、照明や音響の技術がガクンと落ちて見えたことは、かなり大きい。
はじめてテニミュを観た時、緻密な音ハメとアナログながらも画期的な照明の動きでテニスを見事に表現していることに感動した。3rdシーズンまで磨かれてきたこの技術が損なわれたのは痛い。試合の臨場感が薄くなり、ラケットの振りや照明のピンスポットとズレた打球音に酔いそうになる。
一新するのであれば新たな表現方法を模索して欲しかったし、類似したままなら退化はして欲しくなかった。今後の発展に期待したい。

また、演目の構成に変更があったのも一因かも知れない。
オープニング→学校別の場面→それぞれの楽曲→試合→エンディング→リプライズ→バウ→サービスナンバーという簡潔な構成から、あくまで原作に沿った構成になっている。それによりメインの対戦校の扱いが弱く(実際は場面も増えているのに)、熱量が低く感じられてしまい、公演が「青学vs不動峰」と銘打たれていることに違和感を覚えた。俯瞰的であることが観客を客観的にしてしまうのは、原作を丁寧に描くことの功罪かも知れない。
また、最後のリプライズがなくなる(劇中で行われる)ことにより、楽曲の印象が弱まって記憶に残りづらくなった印象を受けた。サービスナンバーに向けての高揚感が弱まったようにも思う。

そして、コミュニケーション手段の変更。
公演前後のキャラクター(キャスト)によるアナウンスがなくなったことにより、観客とキャラクター(キャスト)のコミュニケーションはサービスナンバー以外なくなった。
ミュージカルと言いながらも劇中では全体的に拍手がし辛く、感動を伝えられないフラストレーションを感じる。緞帳や曲終わりの見栄を廃したことにより、歌や場面の区切れが分かり辛い。バウではシンフォニー調の楽曲が採用され、楽曲に合わせた手拍子がなくなって観客の一体感は損なわれた感じがする。

最後に、テニミュの観劇後の清涼感を担保する重要な要素であるサービスナンバー。
試合後の感情の吐露や次の意気込みを語って観劇後の感動を誘っていたのが、尺をたっぷり使ったキャラクター紹介になった。「応援対決」「選手宣誓」という言葉はサービスメドレーを物語に近づけているし、コールができるようになる日を想像するとワクワクするのだが、本来は試合後のはずのシチュエーションとやや相違があり、違和感を生じさせる。

小さな違和感を、随所に覚えてしまった。
それが「型なし」に感じた理由だろう。

歌舞伎のような舞台作品であっても、脈々と受け継がれた「型」を守っている。それは「型」を愛してきた贔屓の期待に応える為であり、決して惰性ではない。
一方で現代的な新演目も作られおり、伝統的な演目の中に違和感なく差し込まれている。そして、「超歌舞伎」のような革新的な演目も生まれている。世襲制への批判などを受けながらも、歌舞伎を守る意思を強く感じられる。

では、テニミュの「型」とは何なのか。

少なくとも私は、曲調やダンス、歌詞のクセではないと考えている。リメイク含め過去曲を全て廃する必要性や場面に適切な音楽であったかの議論はさて置き、人によって好き嫌いが別れるので賛否両論が起こるのは当然だ。
もっと根本的な部分……表現の重点、技術、演目の構成、親近感の演出などのテクニカルな部分に「型なし」の正体はあると思う。

本当に一から始める気概なら「型なし」でいいのかも知れない。新たな「型」を長い時間をかけて自分で創ると言う意気も応援したい。しかし一方で、それでは世代が変わる度にファンが離れてゆき、いつか消えていくものになるのではないかという一抹の不安も覚えた。
それでは困る。私はテニミュが大好きで、失いたくない。テニミュは伝統と革新を両立し、他の上をいく唯一無二の作品であって欲しい。一度は批判的になってしまったファンも、このような想いがあったのではないだろうか。

制作陣の世代交代を経ても、多くのファンが長年コンテンツを支えるだけの「型」を見出せるか。

これまでテニミュを支えてきた観客が3rdシーズンの終わりに座長から託されたバトンを次に繋いでいけるのかは、そこにかかっているのかも知れない。4thシーズンの開幕に寄せて、そんなことを考えた。

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あくまでも現時点での所感として書いています。「俺たちはまだ発展途上さ」(引用元:「Do Your Best!」)という歌詞がある曲のメロディに託された意志を受け取って、これからもテニミュを楽しみたいと思います!


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