四十にして惑わずに戸惑う四十
先日ふと、自分の人格はもう確立されていて、変われないのかなと思うことがありました。
40代という年代にそんなに意味があるとも思えないけれど、最近になって富に感じるのが
相手にちょっと嫌なことを言われたり、言っていることがよく分からない時に、瞬間的に鼓膜が閉じるようになったということ。
結構早いスピードで、たぶん一生分かり合えないだろうから、そもそも分かり合えないままでいい、という判断をするようになったということ。
レジリエンスが年齢と共に鍛えられたのかもしれないけれど、これって自分が都合の良いように解釈をして、都合の悪いものを排除しようとしているだけではないかと。
相手の伝え方が自分とは合わないだけで
本当は大事な要素が隠れているかもしれない、
とも思う。
子どものレジリエンスを鍛える系の本を読んだ時に
レジリエンスを鍛える訓練方法として、自分を責めてしまう場合は
「その指摘(その本の中では自己否定してしまう言葉を指している)が合っていると思う根拠」と「合っていないと思う根拠」を書き出してみて、その重さを天秤にかけるというものがあった。
出会わないように事前に回避することもできるかもしれないけど
せっかく何等かの形で反応をしてくれたのだから、
忘れる前に、それくらいすべきでは?
胸を打つような人や言葉との出会いは今後も沢山あると思うけど、なんとなく、自分で選んで引き寄せただけ、と思う時もあり
「四十にして惑わず」のからくりはこれか、、と。
いやそもそも、四十になってしばらくたってるので、なりたての時には思わなかったのだけど、
会社で2年連続で新入社員のOJTをやっていたら、
ぐにゃぐにゃでやわやわの20代を見ていて、「気にしないで」とか「そろそろ心臓に毛生えた?」とか声をかけるだけで良いのか?と
ふと立ち止まって考えてしまったのです。
人間関係が構築されていなくて、責任のない言いっぱなしの意見だったとしても、今年は一回書き出すくらいはしてみようかなと
四十(代)なりに思っております。