「主体的に生きる」と「人との関わり」
前回、自分が何か行動を起こそうとする時に、心の声が聞こえるようになったと書いた。
人と関わる時、特になんでこの人はこういう言い方をするのだろう、こういう行動をするのだろう、とモヤモヤする時。はっきり言えば不快な時に心の声が聞こえるようになった。
不思議だね。褒めてもらえたり、肯定してもらえた時は聞こえない。自分と同じ考えだと認識しているから、心の声もおとなしくしているのか。
例えば、会社で何度も何度も同じことを確認してくる上司がいる。大丈夫だよね?!と強めに言われても、何回も確認しましたよ、と返すしか私には出来ない。
「彼も不安なんだよ。失敗出来ないという思いが強いだけ。あなたの事を責めてるわけじゃないよ。安心したいだけなんだ」
立場が違えばそうしなければいけない事も出てくる。それに人は不安に思うことは人それぞれで、表現の仕方もそれぞれなんだ。
例えば、家族に今日あった自分としては面白かった出来事を話している。でもあまりリアクションも無くつまらない。
「興味なさそうに見えるかもしれないけど、聞いてるよ。元々感情表現苦手な人でしょう。何か別のことに気を取られてるのかもしれないし」
確かに楽しい話をしているのだから、楽しい顔をして!というのはこちらの傲慢だし、もっときちんと聞いて欲しいだけなら、そのまま伝えればいい。察してでは察してくれない人だった、と思い出す。
私自身もその時の体調や感情の波で、いつも同じ対応ができるわけではない。ましてや他人は自分とは全く違う考えを持って、それに基づいて行動している。
だからと言って、違うから何も私からは行動できないというのは違うと思っている。
相手の反応に振り回されず、相手の背景に思いを巡らす。
相手に不快に思われないような行動を取るのでは無く、相手は別の思考を持っているという事を認識して、それに制限される事なく行動する。
相手を傷つけるのはもっての外だけど、無闇に自分のことを傷つける必要もないのだ。
心の声のおかげで、相手には自分とは違う立場から見える景色があり、自分とは違う考えのプロセスがあるということを思い出せる。
だから今この言動は私の事を責めたり陥れたりする為ではなく(たまにあるのかもしれないけど…)ただそれが相手の感情の出し方なんだと思い至れるようになった。
何かモヤモヤするたびに、私の事を嫌いだからとか、私のやり方が間違ってるからなど、無駄な感情を持たずに済むというのはとても楽な事だなと最近思う。
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