主流の批評に追随する批評、いらない
最近、インターネットで某大学職員(以下Aさん)と某インターネット映画批評マン(以下Bさん※現在Xアカウント削除済)がレスバトルをしていた。
正直どちらも相互フォロワーではないので特に肩入れはしていなかったが、傍から見てる感じ「BさんがAさんに自分の好きなジャンルを悪く言われたと感じて機嫌悪くして当たり散らしてる感じだなぁ……」と思っていた。
上記のような感想を抱いていたことから加勢する人も出なさそうだし当人同士で言いたいこと言って終わりだろうな……と思っていた。しかし、話はこれでは終わらなかった。お世辞にも有名とは言えないが、雑誌にも寄稿してるような一応プロのライターがBさんの擁護に回ったのだ。しかも、その際にAさん(及びBさん)を「バカかつ卑しい」と評していた。これが人格攻撃であるのは流石に誰の目にも明らかであろう。
この一連の騒動はネットで検索すればでてくるので詳細は書かないでおく。映画界隈のホモソーシャルかつミソジニー気味の悪いところが出た醜悪な話なので、正直精神衛生上悪いのであんまり書きたくないのが本音だ。
この一連の騒動の是非は置いておいて、個人的には無名とはいえ(言い方は悪いが適切な評価な思いつかないのでこの言い方をする)、映画雑誌に掲載されるほどの批評家が今までの批評のメインストリームをなぞるような批評を礼賛しても何の意味もないのでは……?と思った。
批評とは「ぼくのかんがえたさいきょうのかんがえ」を発表するところではない。それは単なるオナニーである。勿論、インターネットで個人的に言っているだけならば単なる私的な発言であり、上記のような他人の人格攻撃等倫理的に問題のある発言をしなければ、何を言っても問題はない。
しかし、プロとして批評家を名乗り、批評するのであればそれでは片手落ちであろう。批評家として金銭を貰い雑誌に掲載されるのであれば、「既に評価されている作品」を「その評価のメインストリームに乗せて」批評しても何の価値もない。それならインターネットの感想を見ていた方がマシである。
正直「ダーティハリー」が評価が高いのは映画を好きな人であれば知っていることである。そこに既存の評価軸で高評価をすることに何の創造性があるのだろうか。
そんなもやもやを抱えていた時に近藤銀河「フェミニスト、ゲームやってる」(晶文社)を読んだ。ゲームも映画と同様、ホモソーシャルな空気の強い界隈である。だからこそ、「フェミニスト」の視点からのゲーム批評は新鮮で面白かった。「フェミニスト」というとインターネットでは脊髄反射で馬鹿にする層がいるが、男女問わず余程の金持ちの子供以外はフェミニズムが浸透した方が救われると思っている。
フェミニズムに関しては、オタクはニワカやエアプを嫌うくせにニワカやエアプで叩いているのでなんだかなぁと思っている。ちょっとはオタクも勉強しような。
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